陽光の微笑
あの日から、エティエンヌはよく笑うようになった。
ふとした折に緩んだ表情が、自然に微笑みをかたちづくるようになった。大口を開けて笑い声をあげることこそないものの、金色の髪を揺らしながら浮かべる柔らかな笑みには、昼下がりの陽の光を思わせる温かさがあった。常に陰気で苛立っていたあの王子様が、こんな表情を浮かべることもできたのかと、見るたびルネは舌を巻いた。
同時に、ヴィクトール――人の親として最低限の情さえ持ち合わせなかった、あの呪うべき存在が、どれほどにこの魂を責めさいなんでいたのか、ルネは戦慄せずにはいられなかった。ひとかけらの美徳さえ持ち合わせぬ無能の子、との烙印を、なぜこの罪なき魂が負わされなければならなかったのか。納得のいく理由を見つけることが、ルネにはどうしてもできなかった。できようはずもなかった。ぶつける先のない憤りだけが、毒の澱となって身の内に重く溜まっていった。
だがルネの怒りをよそに、エティエンヌの顔は晴れやかだった。いまだ世の者たちは、ヴィクトールの流した虚像に囚われたまま、無遠慮な侮蔑の視線を、時に言葉を、投げつけてくる。しかし、かつて刺々しく反発していた孤独の王子は、いまや、向けられる悪意を晴れやかな笑顔で受け止めるようになっていた。
軍議の席でも、エティエンヌの態度は変化していた。
王城の大会議室で行われた、定例の戦略方針決定会議にて。諸将の冷ややかな視線を一心に受け止めながら、エティエンヌは柔らかく目を細めて微笑んでいた。
自嘲でも虚勢でもない、内なる力に満ちた瞳が、机上の地図を眺め遣った。
「諸兄の主張は十分に理解できた。すなわち、あなたがたは王都以西の地域にまったく関心がない。自らの領土さえ保全できれば後は問わぬ、と」
「そのようなことは申しておりませぬぞ。せめて、討議の言葉は正しく解釈なさいませ」
座を満たす生温い空気の中、エティエンヌはうっとりするほどの柔和な笑みを浮かべた。
「ではなぜ、この千載一遇の機会に出撃を拒むのか。西海岸の諸侯が協力を申し出ている今こそ、挟撃によって敵勢力を壊滅させる絶好の機会です。敵勢力の完全なる壊滅は、東部地域の安定にも大きく資するはず」
地図の上に置かれた白黒の石は、初めて見た時に比べ、王家軍の白が大きく数を増している。だが貴族連合の黒も少なからず残っている。王都より東はほぼ白、西は大半が黒だ。
だが西の最も端、海岸部にも一群の白が固まっている。これが、今回密かに共闘を申し入れてきた諸侯だ。元々貴族連合の盟主ベルナール・ド・アンジューとの関係が悪く、王家側へつく機会を窺っていたらしい。
ルネの素人目から見ても、敵の背後を衝けるのは有利な話に見える。だが席上の将軍たちにとっては、どうやら話が違うらしい。
「世の中には、あなたの考えが及ばぬことも多々あるのですよ、エティエンヌ殿下。兵は何もなく動かせるわけではございません。装備品の準備に兵站にと、巨額の費用を要します。得られる益と失う財貨を、我らは秤にかけておるのです。この単純な話、なぜご理解いただけぬのですかな」
ぎょっとする俺をよそに、エティエンヌは微笑みを浮かべたまま軽く頷いた。
「その通り、私の知恵には限りがある。ひとりの人である以上、思考も判断も完璧とはいかない。ゆえに」
エティエンヌは、机上に並ぶ報告書の一枚を取り、高く掲げた。
「次に挙げる三点について、合理的な論拠をご教示願いたい。一つ、挟撃の機会をみすみす看過する合理的な理由について。一つ、この報告書が示すように、ベルナールは西部に残存する諸勢力の糾合を着実に進めている。彼の活動を放置するのが適切である理由について。一つ、王都奪還戦からの経過日数を考えれば、兵士の疲労は十分に回復していると考えられる。これ以上の休息が必要と主張するならば、その理由について……戦に費用がかかるのは重々承知している。ゆえに、私は早く戦を終わらせたい」
柔らかい笑みに浮かぶ視線が、威圧的だ。とはいえ、かつてのヴィクトールのような脅迫めいた目つきではない。内なる自信に裏打ちされた、しなやかな力を感じる。
生温い空気が一気に冷えた。森を包む葉ずれの音が、風が止んだとたんに静まり返る、あの様子にどこか似ていた。
「どうした、答えられないのか。費用面からの根拠、聞けるものだと思っていたが」
あくまで穏やかにエティエンヌが言えば、諸侯の一人が鼻を鳴らした。
「エティエンヌ殿下は、すべてをお独りで決められるおつもりですかな。殿下は、ご自身がお父上と同じだけの器を持っていると思いか」
「自身の器については、自分では判断がつかないが」
エティエンヌは諸将を見回し、満面の笑みを浮かべた。
「費用以前に、私は兵の命を失わせたくない。戦が長引けば、浪費されるのは金の前に人だ」
諸将が息を呑んでも、柔らかな笑みは微動だにしない。当惑の空気の中、エティエンヌの周りだけが春の陽光に輝いているように見えた。
◆
会議室を退出した後、ジャックも含めた三名がエティエンヌの私室に集まった。ルネが背筋を伸ばす横で、エティエンヌはぐったりと椅子に背を預けていた。力の抜けた無防備な表情さえ、暗い翳りが抜けた今は、やわらかい輝きを帯びているようにルネには見えた。
「言ったなあ、エティエンヌさんよ」
若干のからかい交じりに言えば、エティエンヌは小さく頷いた。
「ああでもしなければ、彼らは理解しないだろう。私はもはや、力なき操り人形ではないのだと」
「先日以来、ずいぶんと変わられましたね。殿下は」
感心したようにジャックが言う。
「まるで憑き物が落ちたかのように、言動が自信に満ちておられますね。このジャックめも嬉しゅうございます」
「おまえにも苦労をかけたな、ジャック。長く私の傍で見守ってくれたこと、とても嬉しく思う」
ジャックは大きな目を丸くして、次の瞬間、深々と頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます! もったいないお言葉、痛み入ります」
「これまで私が狂わずにいられたのも、ジャック、お前のおかげだ。どれほど感謝してもしきれない」
さらに深く、ジャックは頭を下げた。
エティエンヌはひとつ伸びをすると、手元の報告書を繰り始めた。うちの一枚で手が止まる。
「西海岸の諸侯と連絡を取らねばならない。一息ついたら書簡の準備をする」
「承知いたしました。薬草茶はご入用ですか?」
「そうだな、眠くならないものを頼む。頭が冴える種類だとありがたい」
一礼する目に、かすかに潤みが見える。
こいつにとっても、エティエンヌの変化は感慨深いのだろう……と思っていると、不意に二の腕を小突かれた。
「ルネ様、少しよろしいですか」
エティエンヌには届かないであろう小声で、囁かれた。
◆
ジャックは、今は人気のない厨房へとルネを連れ込んだ。従者は湯を沸かしつつ、いつもの人好きのする笑顔でルネを見た。
「本当に変わられましたね、殿下は。私の知る『本当の』殿下、よく笑う心優しい幼子が、そのまま育てばあのようになるかと思うほどに」
「何が言いたい」
冗談めかして返せば、ジャックは薄荷の葉を洗いつつルネを見据えた。
「あの遺言状に、何があったのですか」
ジャックは幾分乱暴な手つきで、緑が鮮やかな葉を水に泳がせている。彼にしては珍しく、感情が表に出ている。
遺言の内容は衝撃だったが、彼には隠しておく理由もないだろう、とルネは考えた。あのとき部屋の外にいたであろうジャックには、エティエンヌの叫びも届いていたかもしれない。
「あんたの見立てが正しかったってことだ。『本当の』あいつは、あんたが思う通りのあいつだった。ヴィクトールもそれを知っていた」
「つまり、父君が公言していた評価は偽りであったと?」
ルネが頷くと、ジャックは洗い上がった葉を半分に裂いた。手つきが、なぜだか少しばかり恐ろしい。
「そのような大事なお話を、おふたりだけの秘密になさっておられたのですね」
「すまん。隠してたわけじゃねえんだが」
ジャックは薄荷の葉を、数枚ずつまとめて細かくしていく。繊維がぶちぶちと千切れる音が、奇妙に生々しく聞こえる。
「私は幸せです。殿下の笑う顔を目にできること。力強いお言葉を耳にできること。従者として、これ以上の喜びはございません」
言葉は、独り言のように聞こえた。ルネに向けられた言葉でないのは確かだった。
細切れの葉が、どこか荒っぽい手つきでポットに投げ込まれる。湯が注がれると、つんとした爽やかな匂いが辺りに立ち籠めた。清涼な空気の中、ジャックの背だけが奇妙に沈み込んでいるように見えた。
「殿下はあなたを頼っておられます。これからも、殿下をよろしくお願いいたしますね」
明るい声色が、奇妙に虚勢じみて聞こえる。
だが理由はわからない。人気のない厨房で、薄荷茶の涼やかな香りばかりがふたりを包んでいた。
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