5章 孤魂再誕
遺言
当面、エティエンヌは奪還した王都の統治に注力することとなった。都市機能回復のための行政機構、治安回復のための警察機構、その他諸々の必要な組織を、失陥前の水準に復旧する――それがいったんの目標となった。
エティエンヌは、ヴィクトール時代の官吏や兵士たちを可能なかぎり招集した。だがその過程で、見えてきたものも多くあった。
「あいつの統治、相当ボロボロだったんだな……」
エティエンヌとルネは、市民からあがってくる大量の苦情に頭を抱えた。
曰く、警察が賄賂の多寡によって罪状を決めている。
曰く、道路や水道の工事に携わる労働者に、給料が契約通り支払われない。
曰く、兵士たちの横暴がひどい。市民に対して居丈高に振舞い、若い娘に狼藉を働く。
かつてと同じ組織と人材のはずだった。だが調べてみれば、問題はヴィクトールの時代から既に存在していたものばかりだった。末端の根は数十年の治世で腐り果て、幹の力でかろうじて抑え込まれていただけだった。
ならば、復旧は復興にはつながらない。腐敗した根を除去し、正しい形に刷新せねばならない。
だが、妙案を持っている人間は誰もいない。
戦いは終わっておらず、すべてを組み立て直す余裕はない。エティエンヌたちにできることは、対症療法として不正を都度摘発することだけだった。だが綻びはあまりに多く、手は足りなかった。
◆
先の見えない日々の中、ルネはひとりの老人の訪問を受けた。ヴィクトールに長年仕えていた侍従長だった。主君の崩御と共に身を引いていたが、渡したいものがあるので王城を訪れた、とのことだった。
渡された封書には「我が王冠にして無二の友 ルネ・ブランシャールへ」の宛名が記され、赤黒い封蝋の上にはヴァロワ家の「竜と双剣」の紋章が力強く押されていた。
「ヴィクトール陛下が、死の床にて書き残された書状です」
「あいつが?」
首を傾げつつ封蝋に触れると、割れて粉になって落ちた。古いものであるのは間違いなさそうだった。
「ルネ様の『死』は、陛下には伏せられておりました。それゆえ陛下は、病の床にあってもあなた様を待ち続けておられたのです。いつか必ず、あなた様が不老不死の秘法を持ち帰ると信じて。その書状は、あなた様が戻られた折に渡すようにと、陛下から言付かったものです」
つまりは自分宛の遺言かと、ルネは理解した。
「わかった。エティエンヌと一緒に読ませてもらう」
言えば、侍従長はゆっくりと首を横に振った。
「ルネ様だけにお届けしろとの仰せでした。他の誰にも、王子様たちにも、決して読ませてはならぬと」
とすると、個人的な内容なのか。
ルネはヴィクトールと公私ともに親しかった。だが公のことであれば、個人宛の書状になどしないだろう。ならばこれは、ヴィクトールの私の領域。
ルネは書状を自室へ持ち帰った。部屋へ戻るとエティエンヌとジャックが来ていた。広くはない部屋だが、椅子は常時二脚用意してある。赤と青で対になった椅子は、青側がすっかりエティエンヌの居場所として定着した感があった。
「待っていたぞ。王都防衛用の魔法食材について、仕入計画を相談したかったのだが――」
エティエンヌが手中の封筒に気付き、言葉を止める。
「これか? 元侍従長から預かった。ヴィクトールが俺に宛てた遺言って話だが」
「父の……」
整った顔に翳りが過ぎる。やはり父親については、色々思うところがあるのだろう。
手元に注がれる真剣なまなざしを見ていると、ルネには若干の罪の意識が湧いた。「自分だけに託された」と立入を拒むのは酷ではないか、との考えが過ぎる。
迷いつつ、ルネは赤い方の椅子に腰を下ろした。読ませろと言われれば読ませる。言われなければ読ませない。責任転嫁でしかない選択肢を頭に浮かべつつ、彼は軽く呟いた。
「中身はまだ見てない。これから読むところだ」
エティエンヌが身を乗り出してくる。
「私も目を通していいか」
言われて安堵した自分に、いくばくかの浅ましさをも感じつつ、ルネはちらりとジャックに目配せをした。察した表情で一礼し、従者が部屋を後にする。
ふたりだけになったことを確かめ、ルネは封筒を開けて古びた紙を取り出した。二枚あった。
◆
一枚目を読む。
『我が王冠にして無二の友 ルネ・ブランシャールへ
おまえの消息が途絶えて、そろそろ十年が経つ。おまえは今、どこでどうしているだろうか。
ルネよ、残念ながら、おまえが戻る前に私は病を得た。医師は言葉を濁しているが、もう長くはないであろう。不老不死の探求は間に合わなかった。こうなるならば、おまえを旅になど出さなければよかったと悔やまれる。神の料理人さえ我が元に居たなら、不死鳥の肉で病を癒し、いましばらく永らえることもできただろうに。
だが、いまさら言っても詮ないこと。せめておまえが戻った時のために、伝えるべきことどもを書面に残しておくことにする。
ルネよ、まずは礼を言わせてほしい。貧民街から見出されて以来、おまえは本当によく働いてくれた。おまえの魔法料理は私に権威をもたらし、楯突く者どもを討ち滅ぼす力を与えてくれた。のみならず、私が執務に疲れた折は、菓子や夜食をも差し入れてくれた。夜中に届く一皿は、私にとって大きな安息となった。魔法のない軽食さえも、我が心身に力を蘇らせてくれた。
出自由来の直截な物言いも心地良かった。初めの頃、おまえは言葉の汚さを気にしていたようだが、私にとって市井の訛りはむしろ耳に快かった。宮廷の言葉は、表向きこそ整っているが、内実は嘘と虚構にまみれたものだ。おまえの飾らない言葉は、私にとって癒しの音色だった。
ルネ、おまえに出逢えたことを、私は心より天に感謝する。
願ってはならぬのだろうが、できれば私は、冥王の元でおまえと再会したい。膝突き合わせて、これまでのことを語り合いたい。数十年の間、日々そうしてきたように。
市井の者たちは噂している。おまえは霊山で神狼に喰われて死んだのだと。信じてはいない。だがもしおまえが先に行っているならば、どうか私を笑って迎えてほしい。かつて夜食を届けてくれたのと同じ笑顔で。
ああ、だが、考えてみれば、おまえは今この手紙を読んでいる。死んでいるはずはないな。すまない、おかしなことを書いてしまった。
ルネよ、私は先に行く。冥王の御許で、おまえが夜食を持ってくるのを待っている。
だがもしも、おまえが霊山にて不老不死の秘法を得たのであれば、追って来る必要はない。尽きぬ寿命で、天地の恵みを満喫するがいい。私は黄泉の底から、おまえを見守っていよう。
我が王冠にして無二の友、ルネ・ブランシャールに、尽きせぬ神の祝福があらんことを』
一枚目の文章は、そこで終わっていた。
読み終え、出るのは溜息ばかりだった。ヴィクトールが私人として、こうも素直な気持ちを見せるのはルネに対してだけだった。晩年の苛烈な粛清を思うと、あの冷酷な君主と手紙の主が同じ人物だとは、にわかに信じられない。
「ルネ。おまえは、本当に信頼されていたのだな」
エティエンヌが感心したように呟く。
彼が父親から受けてきた扱いを思い起こし、ルネは反応に迷った。間が持たなくなり、読み終えた一枚目を無言で後ろに回す。
だが、ふたりの眼前に現れた二枚目の内容は、あまりにも想像を絶するものだった。
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