追憶4

霊山の隠者

 霊山で死ねるものだと思っていた。厳しく危険な環境で、一介の料理人が生き延びられはしないと思っていた。

 だがあの日、血染めの服を残して逃げた日、ルネは川岸でひとりの人間に会った。風雪にぼろぼろのローブをまとった、見るからに隠者風の中年男だった。男は水辺の岩に腰を下ろし、清冽な雪解け水に釣り糸を垂れていた。

 男は開口一番、言った。


「死にに来たのかね?」


 無言で頷くと、男は肩を揺らして笑った。


「そんな顔をしていると思ったぞ。あんた、儂の家で働かんかね。ちょうど人手が欲しかったところよ……この山で暮らしておれば、運が良ければ死ねるじゃろう」


 その日から重労働が始まった。

 狩り、木の実集め、芋掘り、釣り……日がまだ高いうちに、疲れて動けなくなることも多かった。だがそのすべてが、霊山で生き延びるための訓練だと気付いたのは、季節が二度巡り、男が病に倒れた時だった。そのころ既に、危険な場所も安全な道も、ルネの身体はすべて覚え込んでいた。

 これでひとりでも生きられるな――死の床で笑う男へ、ルネは山へ来た理由をようやく告げた。今伝えねば、誰にも聞いてもらえない気がした。


「俺は、人を裏切った」


 涙を流しながら、話した。


「とても大切にしてくれた人だった。大好きな人だった。……だが、一緒にいられなくなった。逃げるしかなかった。逃げる先は、あの世しかなかった」


 男は黙って耳を傾けた。

 長い事情を最後まで語り終えたとき、男は肉の落ちた手で、ルネの手をしっかりと握り締めた。


「悔いているのだな?」


 泣きながら何度も頷いた。


「あんたは、既に十分に罰を受けた。癒えぬ痛みという形でな。だがここに来た以上、もう囚われる必要はない」


 天を仰ぐかのように、男はあばら家の天井を見つめた。


「美しい山。豊かな森。澄んだ川。各々から穫れる天地の恵み。人にとって、他に何が必要だというのか……あんたは、ただそれだけを受け取ればいい」


 翌日、男は息を引き取った。

 最期の言葉に従い、ルネは遺体を森の奥深くへ置き去りにした。数日後に来てみれば、痕跡は骨さえ残らず消えていた。

 ルネは男の遺した小屋で、ひとりで暮らし始めた。

 謎めいた隠者が何者だったのか、ルネは知らない。山の精霊の化身のようにさえ思われた。いずれにせよ、男はルネに生きる術をただ与え、去っていった。

 美しい山。豊かな森。澄んだ川。天地の恵み。人にとって他に何が必要だというのか――聞かされた言葉を日々繰り返しながら、ルネは心中の痛みを、ゆっくりと奥底へ沈めていった。

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