抱擁と握手

 会議はさらに続いた。多くの細かなことがらは出席の諸将たちが決めていったが、途中、エティエンヌはいくつかの事項に異議を唱えて却下させた。それらはすべて、ベルフォレの民に不利益をもたらす事項だった。諸将は抗弁を諦めたのか、表向きは従順に修正を受け入れていた。

 会議の後、エティエンヌは中央庁舎内の自室へ入った。市長が使っていた、広くはないながらも品良い家具で飾られた部屋であった。籐の椅子に、エティエンヌはぐったりと背を預けた。


「疲れました」


 それだけを言って彼は黙り込んだ。身体を動かす気力も尽きているようだった。よくやったなとルネが声をかけると、わずかな微笑みが返ってきた。が、首から下は動かない。


「お休みになりますか、殿下?」


 傍らからジャックが声をかけた。


「眠くはない……が、頭が少々昂ってしまっている」

「薬草茶は御入用ですか」

「落ち着くものがあれば頼む」


 ジャックが部屋を出ていく。エティエンヌは目だけでその背を見送ると、再び動かなくなった。

 椅子の上でぐったりしている長身を見ると、不意に目の前へ蘇るものがあった。夜半の執務室、山積みの書類を前に椅子にもたれる偉丈夫――ヴィクトール。

 不意に、ルネの頬を涙が伝った。あの男が多くの禍をもたらし、エティエンヌも含めた多くの人間を不幸にしてきたとは知っている。それでもルネはいまだに、ヴィクトールの姿を思い出しては懐かしむことがある。今のように。

 ヴィクトールは神ではない。理想の王ですらない。

 けれども認めないわけにはいかない。己はいまだにヴィクトールが好きだ。

 あの男の何もかもを、すっかり憎み切ることができない。執務室に夜食を差し入れ、満面の笑顔で食べてもらい、後ろから抱かれて「ありがとう」と囁かれたいと、なおもどこかで思っている。

 霊山で忘れられたと思っていた。すべてを断ち切り、ルネはルネとして生きられるはずだった。

 だのに――

 とめどなく落ちる涙が、止まらなかった。



   ◆



 カミツレの甘い香りで、我に返った。

 エティエンヌの前に、白磁のティーカップが置かれている。緩慢に一口啜り、彼は大きな息を吐いた。


「ありがとうジャック。あなたのお茶は、いつもおいしい」

「温かいお言葉に感謝いたします、殿下」


 王子はジャックに笑いかけていた。満ち足りた目つきと緩んだ口元に、どきりとする。

 心臓が不意に高く鳴った。身の内に眠る何かが呼び起こされていた。

 気付けば、声が出ていた。


「落ち着いたところで、腹減ってねえかエティエンヌさんよ」


 内心の焦燥を隠すべく、あえて鷹揚に言う。

 エティエンヌとジャック、ふたりが同時にルネを見た。少し考え、王子は言った。


「そうですね、マナを使ったためもあるでしょうが……なにか軽いものでもあれば」

「よっしゃ。作ってきてやる、少々待ちな」


 答えを待たず、ルネは部屋を飛び出した。



   ◆



 食糧庫から使えそうなものを見繕った。幸い、さつまいもとチーズがあった。今更ながらルネは、エティエンヌの食べ物の好みを知らないことに気付いた。これまでは、好む食事ではなく必要な食事を作ってきたから。

 この品で良いのか迷いつつ、ルネは薄切りにした芋を水に泳がせた。椀の中でくるくると舞う芋を見ていると、不思議と落ち着きを覚えた。無心に手を動かしていると、余計なことを考えずにいられた。

 芋を煮る。潰す。牛乳を入れて温める。

 立ち上る甘い香りに、ルネ自身も芯から温まっていくように感じる。

 塩胡椒で味を調え、最後にちぎったチーズを投げ入れ、火を止めた。

 スープ皿に注ぎ、エティエンヌの元へ持っていく。

 湯気を立てる、白く滑らかなスープを前に、王子の顔は少しほころんだ。


「これはマナとか関係ねえからな。残しても大丈夫だ、欲しいだけ飲め」

「殿下のために、ありがとうございます。では――」


 皿を取ろうとするジャックを、ルネは手で制した。


「温かいまま、飲ましてやりてえんだが。特例は無理そうか」


 従者が当惑する。一方で、エティエンヌの表情は変わっていない。


「殿下さえよろしければ、このジャックめは問題ございませんが」

「ルネ様の料理であれば、私は大丈夫です。では、今回だけということで」


 エティエンヌは匙を取り、さつまいもとチーズのスープを掬った。口に入れた瞬間、王子の目はうっとりと細められた。


「温かいものは、こんなにも美味しかったのですね……芋の甘さに、チーズの旨味がわずかに溶け込んでいて。もともと甘いものは好きなのですが、これは、とてもおとなしくて上品な甘さで――」


 言葉を切り、二匙目、三匙目を口に運ぶ。疲れた表情が、見る間に和らいでいく。


「――とろけるようです。胃の中から、温かいスープに溶かされていくようです」


 匙を持つ手の動きが、どんどん速くなる。

 不意にまた、ルネの心臓は締め付けられた。

 似ている。確かに。

 幸せそうに下がった目尻と眉。額の汗に張り付く、癖のない金色の前髪。まっすぐに流れる髪の間に、覗く耳の形。どれもこれも見覚えがある。

 三、四十年くらい前の、若い頃のヴィクトールの面影が、目の前に確かに現れていた。

 これまで気付かなかったのは、表情や雰囲気があまりにも違っていたからだろう。だがいま軽食の皿を前に、同じように幸せそうに笑むこの若者は、確かにヴィクトール・ド・ヴァロワの血を継いでいた。

 じんわりと目頭が熱くなるのを、なんとかこらえる。

 気付けば、目の前のスープ皿は空になっていた。


「ありがとうございました。温かいスープは良いものですね」


 感謝の言葉。だが、丁重な言葉遣いにもどかしさを覚える。

 身の内が欲している。後ろから包み込んでくれた、たくましい腕を。囁きかける、飾らない感謝の言葉を。

 気付けば、ルネの口は勝手に言葉を紡いでいた。


「別に、畏まらなくてもいいんだぜ」


 提案に見せかけた渇望だった。

 何を考えてるんだと、ルネは自嘲する。相手は四十歳くらいも年下の若造だ。寄りかかられこそすれ、寄りかかるべき相手じゃない。とうの昔に失われたものを、いまさら求めても得られるはずはない。


「ですが、しかし――」


 意図をはかりかねたのか、エティエンヌは首を傾げる。ルネは更にたたみかけた。


「俺は、あんたの王冠だ……あんたに使われる側だ。使われる側に、使う側が畏まるのは違うだろ」

「ルネ様?」


 エティエンヌは激しく目を瞬かせた。首を傾げ、視線を泳がせ、ジャックに目配せをした。だが助け船を求められた従者は、にこにこと見守っているばかりだ。微笑ましいやりとりに見えているのだろうか。


「ルネでいい。あらたまった言葉も、二人だけの時は使わなくていい」

「し、しかし。それでは――」

「もっと気軽に、下々の者に対するように喋ってみな」


 余裕たっぷりに胸を張り、ルネは大きく頷いた。

 態度とは裏腹に、胸中は自嘲で満ちていた。脆い若造に昔の未練を重ねる自分が、ひどく惨めに思えていた。それでも、言い出したことを引っ込めることもできなかった。


「ベルフォレを陥とせたなら、王都ももう見えてきてる。王として凱旋するなら、態度も王様らしくしといた方がいい」


 事実ではある。しかし、苦し紛れの理屈でもあった。

 身と心に刻みつけられた記憶が、どうしようもなく疼いていた。何十年も与えられ続けた、あの温かい抱擁を、囁きを、笑顔を、忘れられようはずもなかった。

 静まり返った部屋の中、ジャックもエティエンヌも何も言わない。誰か何か喋ってくれ、この卑しい渇望を切って捨ててくれ――そう、他人任せにする性根も嫌になる。

 目の前の若人は、いままさに父親のくびきを脱しようとしている。だのに導くべき年寄が、囚われたままでどうする。

 沈黙の中、不意に、エティエンヌがルネの右手を取った。包み込むように両手で握られた。


「ルネ様……いや、ルネ。ひどい顔をしている」


 ぎょっとした。自分は今、どんな顔をしているんだ。


「今にも泣き出しそうだ。私は、何かおかしなことを言っただろうか」

「いや、あんたは悪くねえ。俺が勝手に――」


 包み込んでくる細い手に、確かな力が籠った。


「スープが、とてもおいしかった。ただ、それだけを伝えたかった」


 真剣な青いまなざしが、ルネを見つめる。


「ありがとう。ルネ」


 何のてらいもない、素直な感謝の言葉。晴れやかな笑顔は、やはり若き日のヴィクトールによく似ていた。けれどずっと柔らかく、少々はにかんだ表情には可愛らしささえあった。

 不意に、ルネの胸中から笑いがこみあげてきた。

 ――ルネ・ブランシャールよ。おまえはこいつに何を求めてたんだ。エティエンヌはあいつの代わりじゃない。代わるべき存在でもない。こいつは、こいつだ。

 細く肉のない両手の上に、ルネは空いていた左手を重ねた。


「ありがとうな。うまそうに食ってくれるのが、料理人にとっちゃあいちばんの名誉だ」


 重なった四つの手。

 これが、おそらくは自分たちのかたちだ。寄りかかるでも寄りかかられるでもなく、共に手を携えて歩く。

 エティエンヌも父親と戦っている。長く国中の人間に、そして本人の魂に刻みつけられた「惰弱」「無能」の烙印に、必死で抗っている。

 この一日のできごとが、次々とルネの脳裏に蘇ってくる。自らの揮った力を恐れ、悔い、傷ついた者たちに慈悲を見せた、性格は父に似ていない王子。

 ルネは思う。エティエンヌと一緒なら、自分は誤らずにいられるだろうか。なにもかもを償えるだろうか。……この迷える魂を、亡き父親の元から連れ戻してくれるだろうか。


「夜食、作ってやったら……また食ってくれるか」


 口角を上げてみせれば、エティエンヌは晴れやかな笑顔で頷いた。


「ぜひとも。これほどおいしいものなら、いつでも歓迎です……ではなく、歓迎する」


 言葉と共に、色白の頬に朱が差した。


「やはりルネ様……いや、ルネ。やはり、この言葉遣いは居心地が悪い」

「なあに、すぐ慣れる。王宮で『市井の言葉』を使うのも、最初は恐ろしかったもんだが、半年も経てば平気になったぞ」


 大笑いしつつ、重なった手を上下に振る。


「疲れてるだろうから、今日はもう休め。明日からまた忙しくなる」

「そうですね……あ、いや、そうだな」


 戸惑う姿が愛らしい。「惰弱の王子」が色濃くまとっていた陰鬱さが、今は抜けているように感じる。できればこの姿を、たくさんの人々に見せてやりたい。

 王都はもう手の届く距離だ。進もうか、すべての鎖を断ち切りに――声には出さぬまま、ルネはひとりごちた。

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