追憶3

無二なる友

 ヴィクトールは即位の後、しばらく各地を転戦し反抗勢力を潰していった。陣中には常にルネを連れていた。各地の幻獣や神聖植物をルネに料理させ、二人で食べ、最前線で共に魔法の力を振るった。

 諸将の中には、最低限の礼儀も心得ない貧民上がりの少年へ、露骨に軽侮の視線を向けてくる者たちもいた。彼らへ向けてヴィクトールは言い放った。


「彼は我が『王冠』。王冠は王に属するもの。彼に対する無礼は、私への侮辱と心得よ」


 さらにヴィクトールは、ルネに「市井のままの言葉遣い」までも許した。現在に至るまで、ルネが彼を「陛下」も「様」もなしの「ヴィクトール」だけで呼んでいるのは、本人がそれを望んだからだ。

 最も野放図な夢でさえ及ばない、破格極まりない待遇だった。明日の食物にさえ事欠いていた貧民街の孤児が、ある日突然、国王の傍で対等な口をきける立場になるなどとは。

 貴族や騎士たちからの冷ややかな目を、ルネは常に感じた。だがヴィクトールが常に彼を従え、親しげに肩を抱き、微笑みと共に並び立つうち、周囲の視線は次第に畏敬へと変わっていった。


「なあ。なんであんたは、俺にここまでよくしてくれる」


 十五歳の誕生日――実際には孤児院に拾われた日――に、ルネはヴィクトールにそう訊いた。王は彼より九つ上であり、当時は二十四歳だった。だが年齢に似合わぬ風格は、初めて会った時から変わらず持ち合わせていた。

 ヴィクトールは大笑いし、大きな掌でルネの肩を強く叩いた。


「君が私の『王冠』だからだよ。それでは不足かな」

「でもそれだけなら、汚い言葉や呼び捨てを許したりする必要はねえよな。どうしてだ」


 ヴィクトールは、ふふ、と鼻で笑った。


「この王冠には手も足もあるからね。他の者の所へ逃げていかれては困るのだ。だからといって、縄や鎖でがんじがらめにするわけにもいかない。だとすれば――」


 大きな手が、ルネの後ろ頭をくしゃりと掴んだ。癖のある髪を、掻き回すように撫でてくる。


「――友になるのが、最良だと考えた」


 青い双眸が、じっと見つめてくる。


「どうだろう、ルネ。君は、私を友と認めてくれるだろうか」

「も、……も、もち、ろん!」


 しどろもどろになりながら答えれば、ヴィクトールは輝く太陽のような笑みで応えた。

 精悍な顔が近づく。額と額とが触れ合った。


「我らの永遠の友情に、祝福あれ」


 額が離れ、さらに下へと屈み込む。ヴィクトールはルネの手を取り、軽いくちづけを落とした。

 触れられたところが、じんわりと熱くなった。身体の芯が滾った。

 そのとき確かにルネは誓った。この人に自分のすべてを捧げると。

 地獄へ行けと言われれば行く。死ねと言われれば死ぬ。髪の一筋、血の一滴まで、己のなにもかもは、この人のためにあるのだと。



   ◆



 四十数年の間、ルネにとってヴィクトールは無二の友だった。ルネもまた、ヴィクトールの無二の友だった……と、少なくともルネの側では信じていた。

 ルネは宮廷料理人たちに師事し、年を追って料理の腕を上げていった。料理人としてひとかどの技が身についた頃から、彼は時折魔法のない食事も作るようになった。執務室で夜遅くまで政務を続けるヴィクトールに、温かな麦粥やスープを作って持っていくと、仕事疲れの王はとても喜んだ。

 椀を置いて辞去しようとするルネを、ヴィクトールはよく後ろから抱きすくめた。大きな身体で包み込むように抱かれ、「ありがとう」と耳元で囁かれると、ルネの胸中は涙が出そうなほどの幸福でいっぱいになった。今この時のために自分は生きているのだ、とさえ感じるほどに。

 そして彼は、ヴィクトールへの想いを新たにし、頼まれるままに魔法の皿を作り続けた。


 長い年月の間、ルネが見ていた相手はただ一人――己が主君のみであった。だからこそ、城下のありさまが少しずつ変わっていく様にも気付かなかった。

 見ようと思えば、見られたはずだった。だがルネは目を背けた。耳を塞ぎ続けた。無二の友は、すべてをうまくやっているのだと信じた。信じ込もうとした。作った魔法料理がどんな使われ方をしているか、考えないようにした。

 だが、時は来てしまった。


 その日、頼まれていた火蜥蜴サラマンダー料理を作り終えたルネは、所用でヴィクトールの執務室を訪れた。本人は不在で、机上に名簿が置かれていた。隅に「アニー・ブランシャール」の名があった。ルネが勝手に名字を借りた、孤児院の先生だった。ルネは、懐かしさと共に手に取ってみた。

 その日火あぶりの刑に処される、犯罪者たちの名簿だった。


 刑場には多くの人々が並ばされていた。誰もが痩せ細り、身体にはひどい傷や痣があった。先頭にひとりの老婆がいた。かつて孤児院で微笑みかけてくれた、見覚えある面影の上に、幾筋もの新しい傷が刻まれていた。

 兵士に囲まれた罪人たちから、少し離れてヴィクトールが立っていた。

 老婆が叫んだ。


「あなたは悪魔です」


 声が、ひどくかすれている。


「傷ついた者に手を差し伸べるのは、聖典にも記された当然の責務。人の慈悲も、神の言葉さえも否定するあなたが、悪魔でなければ何でしょうか」


 なおも続けようとする老婆を、兵士が槍の柄で打った。痩せ細った身体が、軽々と地に倒された。


「卑しい罪人どもが吠えおるわ。反逆者を匿う者もまた反逆者、当然の裁きよ」


 嘲笑混じりの言葉と共に、ヴィクトールが右手を上げた。

 兵士が高らかに宣言する。


「これより、反逆者十七名の火刑を執行する――」


 ヴィクトールの掌に、鮮やかな赤い炎が宿り、見る間に膨れ上がる。

 その先をルネは正視できなかった。


 おぼつかない足取りで城へ戻れば、また火蜥蜴料理の依頼が来ていた。

 耐えられずヴィクトールの執務室へ向かえば、今度は本人がいた。あの料理は何に使うのかと詰問すれば、ヴィクトールはどこか寂しげに首を振った。


「ルネ。誰がおまえを惑わせた」


 四十年を経てもなお、ヴィクトールは年齢の割に若々しかった。聖なるマナに満ちた料理を日々食べているから、だったのだろうか。

 不意に、ヴィクトールはルネを抱きすくめた。いつも夜食の感謝を表す時と、まったく同じ温もりが身を包んだ。


「言ってみよ。我が『王冠』に、我が無二の友に、つまらぬ憂いを抱かせたのは誰なのか。私は決してその者を許さぬ。聖なる炎で、跡形も残さず消し去ってくれよう」


 声に狂気の色はまったくなかった。常のような平静で威厳ある声だった。よく知っている、温かく優しい体温が伝わってきた。五感が安らぎと幸せを伝えてくる。

 ルネは激しく混乱した。

 ブランシャール先生は死んだ。「無二の友」に殺された。

 だのにどうして、この身は満ち足りているのだろう。悲しいはずの、苦しいはずの、今。

 自分で自分が、わからなかった。

 あのとき、流れ落ちる涙を拭っていたのは、ヴィクトールの指だっただろうか。

 乱れる心を、ルネは立て直すことができなかった。己が何を感じているのか、何を見ているのか、それさえさだかにわからなかった。


 雲を踏んでいるかのような足取りで厨房に戻れば、まな板の横に火蜥蜴の肉が積まれていた。明日までに調理せよと依頼されている物だった。

 不意に強いめまいを覚えた。足から力が抜け、床にへたり込んだ。

 しばらく後、やってきた下働きに助け起こされるまで、ルネは立ち上がることができなかった。


 結局ルネは、血抜きをしないままの火蜥蜴肉を、翌日そのまま焼いて出した。

 ひどい味のはずの炙り肉。口に入れた瞬間、ヴィクトールは眉間に皺を寄せた。

 厳罰を予期した。死罪も覚悟した。むしろ心のどこかで望んでいた。

 だがヴィクトールは無言のまま、すべての炙り肉を平らげた。ルネよ、少し注意力が落ちているようだな、気をつけるのだぞ――最後に、その一言だけを残して。

 ヴィクトールの瞳に、その日も一切の狂気の色はなかった。だからこそ震えが止まらなかった。この程度で逃がしはしないと、言われた気がした。

 ルネの胸中で誰かが囁いた。王から受けた計り知れない恩義を、おまえは忘れたのかと。多少のことには目を瞑れ、おまえは「王冠」なのだからと。

 他の誰かが囁いた。おまえはこの男に加担し、無辜の人々を殺すための魔法を供した。おまえの罪は償われなければならないと。

 異なる無数の声が、四方八方から囁きかけてくる。心が引き裂かれる音が、胸の内で確かに響いた。



   ◆



 不老不死の探求を、世の人々はヴィクトールの発案と信じている。だが実際はルネの提案であった。神聖なマナに満ちた霊山エスカルデは、同時に極めて危険な神域でもある。踏み込んで生きて帰れる保証はなかった。

 だから、死ねると思った。

 ルネに自害などできようはずもなかった。人生のはじめを貧民街で過ごしたゆえに、生への無意識の執着が強すぎた。だから殺してもらわねばならなかった。一日でも早く自分が死ねば、それだけ魔法で屠られる人々も減る。誰でもいい、早く殺してくれ――その思いは、日を追って強くなっていた。

 当初ヴィクトールは猛反対した。友をそのような死地へ遣るわけにはいかぬと。だがルネが彼の両手を握り、上目遣いに言えば、態度はたちまち軟化した。


「二人で永遠の時を生きようぜ。大丈夫だ、必ず帰ってくる」


 ルネは数人の兵と共に、思惑通り辺境の地へ遣わされた。

 霊山に入ってすぐ、黒毛の神狼と出くわした。だがルネが目の前に出て行けば、兵士たちが先手を打ち、哀れな獣を槍と弓で串刺しにしてしまった。ここでも死ねないのか――とルネが絶望しかけた時、不意にひらめきが降ってきた。

 兵士たちの目を盗み、ルネは神狼の血と毛を衣服につけた。そして逃げた。

 汚れた服を、目につく道端へ投げ捨てた。上半身裸のまま森へ分け入った。小枝や茨に裂かれ、肌に無数の傷がついた。それでもひたすらに奥地へ進んだ。

 どれだけ進んだことだろう。

 不意に目の前が開けた。青く抜ける空に、霊山の稜線が白く浮かび上がっていた。

 天地の広さを不意に思い知った。なぜだか笑いがこみあげてきた。

 生きよ、この地で――と、何者かが告げているかのようだった。

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