4章 王都奪還

狐火葵のギモーヴ

 王都ブリアンティスは、森の街ベルフォレから早馬で三日ほどの距離にある。

 ベルフォレを囲む広葉樹の森を抜ければ、先に広がるのはブリアンティス平原の沃野だ。春になれば一面の麦穂が揺れ、黄金の海のような景色が目を楽しませてくれる。だが今は秋口、種蒔きを控えた裸の土だけが、寒々しく広がっている。

 王都とベルフォレを繋ぐ大街道には、いくつもの商業都市が点在しているが、王家軍によるベルフォレ占領の報を受け、次々に帰順を申し出てきた。ベルフォレを陥落させた「黒い稲妻」の脅威が、必要以上に尾ひれがついて伝わっており、王家軍の諜報部隊も、故意に各地へ誇張した情報を流していた。それら抗戦の意欲を削ぐ情報に加え、占領地の民間人に対する寛大な措置が、平和的帰順を促す方向に大きく作用していた。それはエティエンヌの確かな功績といえた。

 そして現在、王家軍は目立った妨害を受けることなく王都近郊まで到達した。現在駐屯中の、王都最寄りの街から西を眺めれば、王都ブリアンティスは既に遠目に見える。十数年が経っても、陽光に白く輝く城壁の眺めはルネが知る通りの姿を保っていた。

 中央庁舎のバルコニーで、ルネは白木の椅子に掛けつつ景色を眺めていた。変わらぬ景色を愉しむうちに、呼んでいたエティエンヌがやってきた。ジャックを影のように従えつつ、王子はルネの脇に立った。


「ルネ、なにか感ずるところがあるか」

「景色、変わんねえなあと思ってな」


 エティエンヌも最近は、くだけた口調にすっかり慣れた。畏まった口調より、やはりこちらの方がいいとルネは感じる。

 目で促し、机を挟んだ向かいの椅子に座らせる。机の上には白磁のティーポットと一対のティーカップ、皿に山盛りの茶菓子がある。一口大の大きさに切られた、賽子さいころ様の薄黄色の塊たちは、粉砂糖を薄く被って優雅な雰囲気を醸し出している。今が戦時中だということを、つい忘れそうになるほどに。

 ハーブティーを二人分注ぎ、一方をエティエンヌの側に置く。ジャックが一歩進み出た。


「毒見、よろしいでしょうか」


 軽く頷くと、ジャックはうやうやしくティーカップを捧げ持ち、一口啜った。茶菓子もひとつ口に運ぶ。


「大変な美味、ですね」


 大きな黒い目を細め、ジャックは笑う。


「爽やかな香りのお茶と、不思議な弾力のある菓子。いずれにも共通する、棘のない酸味と上品な甘味……いままで食べたことのない食感です。さ、殿下もぜひぜひ」


 従者の様子に、ルネは苦笑いを漏らした。毒の効き始めまで待たなければ、毒見の意味などないだろうに。もはや毒見ではなくただの味見だ。とはいえ、ルネがそれだけ信頼されている証でもあるのだろう。

 エティエンヌの側も、咎めるでもなく同じティーカップに口をつけた。同じ食器の同じ位置に口をつけることにさえ、この二人はためらいがない。互いにそれだけのえにしがある、ということなのだろう。


「ああ、これは確かに美味だ。匂いは柑橘だが、レモンともオレンジとも似ていない……爽やかで、それでいて穏やかな果実の香りがする」


 白木の椅子で、満足そうにエティエンヌは笑う。茶菓子の皿をそっと寄せてやると、細い指が四角い塊を一つ摘まみ上げた。ゆっくりと咀嚼し、何度も頷く。


「なんとも不思議な食感だ。もっちりと弾力があって、噛むと柑橘の甘味がじんわり染み出してくる……食べ終わった途端に、もうひとつ欲しくなるな。いつまででも食べていられそうだ」

「おう、いくらでも食え。なんなら全部あんたの分でいいぞ」


 エティエンヌは子供のように、無心に茶菓子を口に運ぶ。目尻を下げた屈託ない笑顔に、鬱屈の影はない。

 少しばかりほっとする。いまのところルネの試みは図に当たっている。それにせめてティータイムくらいは、多忙極まる王子様に安らぎを与えてやりたい。王都の戦いが決着すれば、休息の暇さえなくなるだろうから。


「ところでルネ」


 エティエンヌが声をかけてきた時、机上の茶菓子は既に三分の一ほどにまで減っていた。ハーブティーのおかわりを注ぎつつ、ルネは返事をした。


「なんだ。茶菓子なら明日また作ってやるぞ」

「王都決戦向けの食材調達はどうなっている。私はまだ何も聞いていないが」

「せっかくの雅なティータイムに、野暮な話だな」

「開戦の予定は三日後だ。そろそろ準備が必要な頃合だろう。気がかりがあれば、茶を楽しむどころではないからな」


 聞こえよがしの溜息をひとつ吐き、ルネは机上に目を遣った。


「もう食ってるぜ」

「どういうことだ?」


 飲み込めていない風のエティエンヌに、ルネは説明を始めた。彼としては、もう少し「ネタばらし」を先に延ばしたくはあったのだが。


「こいつは『狐火葵のパテ・ド・ギモーヴ』。神聖植物『狐火葵』を使った菓子だ。狐火葵は名前の通り、狐火や人魂、幽鬼や亡霊の出る沼に育つ薬草でな。薄紅立葵ギモーヴによく似ているが、風味も薬効もはるかに勝る。香気は柑橘に似てるが、より上品でまろやかだ」


 薄紅立葵ギモーヴ。遠い国だと「水辺の葵マーシュ・マロウ」とも呼ばれるという。根に含まれる粘液を、砂糖その他と混ぜて煮詰めると、独特の食感の塊ができる。それが「パテ・ド・ギモーヴギモーヴのペースト」、もしくは単に「ギモーヴ」と呼ばれる菓子だ。遠い国では卵白も入れて、似てはいるが少し違う菓子にしている。そちらは、やはり植物の名から「マシュマロ」と呼ばれていて、ギモーヴよりもふわりとしている。

 ともあれこれが、ルネが選んだ今回の切り札だった。


「あんたの食が細いのは、これまでの経緯でよくわかってる。かつ王都は広い。ベルフォレの規模までなら二人でもなんとかなったが、王都全域は俺たちの魔法だけじゃ無理がある。で、だ」


 ルネは、三分の二が空になった菓子の皿をちらりと見た。


「思い出したんだよ。王宮の貴婦人たちが『甘いものは別腹』って言ってたのを」

「それで、食事ではなく菓子を?」

「こないだ言ってたろ、甘いものが好きだってな。だったら別腹作戦、いけるかもしれねえと思った」


 傍らで、ジャックが深々と頭を下げた。


「父君の元では、お菓子をいただく機会もなかなかありませんでした。殿下の幸せそうなお顔を拝見できて、このジャックめも幸せでございます。まこと、殿下は良きご友人を得られました」


 満面の笑みを湛える従者を見ていると、ルネの側まで顔が緩んでくる。この忠臣にとって、主人の幸せはそのまま自分の幸せなんだろう。


「ともあれこれで、胃袋の問題は解決だな! 明日も明後日も作ってやるから、楽しみに待ってな」

「この菓子を毎日食べられるのは、確かに嬉しい。が、もう一つの問題はどうなのだ、ルネ」


 真剣な顔に滲む、抑えきれてない喜色が可愛い。若人はこのくらい素直な方がいいと、ルネは感じる。

 にやけながら眺めていると、エティエンヌは眉間に皺を寄せながら身を乗り出してきた。


「王都の全域へ影響を及ぼすには、私たち二人の力では足りない。その話はどうなっている」

「心配すんな、ちゃんと考えてある。だがそこは、後で作戦会議で話す」


 ルネは、自分のティーカップを一口啜った。ほんのり爽やかな柑橘の香りが、口中をふわりと満たす。このハーブティーも、狐火葵の葉と花を使ったものだ。根を使った菓子ほど濃くはないものの、ある程度マナを取り込むことができる。


「だから今はゆっくりしな。優雅に茶を楽しめるのも、今のうちだけだろうからよ」


 微笑みかければ、エティエンヌの口元がふっと緩んだ。細く白い指が、茶菓子の皿に伸びる。

 粉砂糖をまとった茶菓子が、薄い唇へ次々と消える。うっとり蕩ける表情を、傍らでジャックがにこにこと見つめている。

 こんな時間が、いつまでも続けばいい――叶わぬ望みとわかってはいるが、願わずにはいられなかった。

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