黄金の霧氷

 消えた上層部。居並ぶ民間人。

 完全なる手詰まりだった。敵中枢の行方に手掛かりはない。捜索するにも、市内全域に散開できる兵力はない。裏路地の土地勘もない。

 目の前の人々なら、司令部に使えそうな場所の心当たりがあるかもしれない――と考えかけた時、誰かが怯えた声をあげた。


「……殺される」


 声はまたたく間にホール中に広がった。殺さないでくれと叫ぶ老人。この子だけはと赤子を抱く母親。伝播する恐怖が場を満たす。激しい混乱の中、聞こえた言葉があった。


「焼かれる」

「火あぶりにされる」

「炎竜王に燃やされる」


 心臓が締め付けられた。

 ヴィクトールは国をどう治めていたのか。ルネが知らなかった、否、知ろうとしなかったところで、魔法の炎はどう使われていたのか。眼前にあるのは、ルネが目を背け続けた結果だった。恐慌状態の住民を前に、ルネはすくみ上がったまま動けなかった。

 不意に、肩に手が置かれた。エティエンヌだった。

 安心させるかのように、数度ルネの肩を叩くと、丈高き王子は民の前に一歩を踏み出した。


「大丈夫です。今の『王』は、私です」


 澱みのない、堂々とした声だった。

 後ろ姿を思わず見つめる。背筋はしゃんと伸び、震えもなく堂々と正面を向いている。背後で一本にまとめた金髪が、やわらかい輝きを帯びているようにさえ思えた。

 怯え騒ぐ民間人を前に、エティエンヌは慈母の如く、両手を大きく開いた。


「私は……私たちは、決してあなたがたを傷つけません。どうかご安心ください」


 黄金の輝きが増す。

 そこではじめてルネは、エティエンヌが本当に輝いていることに気付いた。長身が金色の光を放っている。

 コンフィに付け合わせた金枝芋のマナだった。マナの扱いに不慣れなために、制御しきれず漏れ出ているのだろうか。護身用の意図だったが、いま身を包む清らかな輝きは、防御とはまったく別の効果を生んでいた。


「このエティエンヌ・ド・ヴァロワ、正統なる王位継承者として、皆さんの生命と安全を保証します。これは、我が身分の証」


 周囲の気温が急速に下がった。黄金の光が強くなった。

 エティエンヌの周囲に、きらきらと光の粒が舞う。微細な氷の欠片だった。粉雪のような無数の粒が、黄金の光に照らされ、神々しい後光となって丈高い王子を取り巻いていた。普段は虚弱な印象を与えるばかりだった背の高さが、今は天上人じみた雰囲気を作り出している。

 氷雪白鳥由来の氷マナは、氷壁を作る時にほぼ使い切ったはずだ。出涸らしになった身の内から、無理に滴を絞り出しているような状態なのだろう。

 黄金の霧氷を前に、民の恐怖が薄れていくのを感じる。まばゆい光に、溶かされるように。


「……きれい」


 幼子がひとり進み出て、光の粒に手を伸ばした。エティエンヌは屈み込み、幼子の手を両手で握った。

 後ろからでは表情は見えない。だがきっと、慈愛に満ちた顔だろうとは想像できた。


「綺麗、かい。それはよかった」


 エティエンヌは両手を解き、幼子の肩を抱いた。


「もし知っていたら教えてくれないか。ここにいたはずの偉い人たちが、どこへ行ったか」


 しばしの沈黙の後、後方の大人たちから声があがった。


「西へ向けて、馬車が何台か走っていきました」

「大街道をしばらく西に行くと、商工会議所があります。そちらに人が集まっていくのを見ました」


 エティエンヌが背後を振り向き、大きく頷いた。満ち足りた微笑みだった。兵士たちが何人か、外へ向けて走っていく。

 不意に、エティエンヌの長身が傾いだ。ルネがあわてて支えれば、根元を伐った木が倒れるように、エティエンヌは腕の中へ崩れ落ちてきた。

 マナの使いすぎで気を失ったのだろう。金属鎧を着けた重い身体を抱えながら、ルネは石の床にへたり込んで、一息をついた。



   ◆



 王家軍の別働隊は、西へ逃げたと思われる残存守備隊を捜索・追撃していった。一方で東門方面の本隊も、背後を断たれ混乱する敵部隊を徐々に圧倒していった。決死の抵抗をされて、氷が溶けるまでの時間を稼がれれば面倒なことになっていたはずだが、氷壁のおかげで指揮系統は分断できていたようだ。戦意を失った敵兵は次々に降伏してきたと聞いている。

 外で戦いが続く間、ルネは民間人の保護を兵たちに任せつつ、エティエンヌの身柄を安全な場所へ退避させた。中央庁舎の応接室に、ちょうどいい長椅子があった。金属鎧を脱がせ、クッションを枕にして横たえてやると、王子は小憎らしいほどに安らいだ表情で、すやすやと寝息を立てはじめた。

 慣れないうちは仕方がない。ルネ自身も初期は何度か、魔法を使いすぎて気を失ったことがある。生命の力を吐き出すのだから、必然的に体力も使う。

 ルネも床に座りつつ一息をついた。マナを使い切った料理人が、戦場で役に立てる局面は当面なさそうだった。


 窓の外の陽が徐々に赤味を帯びてきた頃、不意に部屋の扉が開き、血相を変えたジャックが入ってきた。留守居役の彼が来たなら、市内の制圧はほぼ終わっているのだろう。エティエンヌの命に別状はないと告げると、黒髪の従者は安堵した表情で、ルネの傍らに腰を下ろした。


「何か、手伝えることはございますか」

「とりあえず今はねえな……疲れて寝てるだけだ、休ませておいてやれ」


 長椅子で眠る力の抜けた顔を、二人並んで眺めていると、ふと疑問が湧いた。この悪評だらけの王子は、本当にはどんな人間なのだろうか。

 時に、神経質そうな小人物に見える。

 時に、無理難題を押し付けてくる世間知らずの坊ちゃんに見える。

 だが時に、他人の労苦を慮る慈悲深い人物にも見える。

 そして今日は、慈愛と胆力を備えた、王の品位と風格を持つ男に見えた。

 どれが本当のエティエンヌ・ド・ヴァロワなのか、ルネにはわからない。わからないが、父親ヴィクトール・ド・ヴァロワに似ていないことだけは確かな気がする。

 いや、そうでもないかもしれない。他はともかく王の風格に関しては、もしも本当に持ち合わせているのならば、ヴィクトール譲りといえるかもしれない。

 ルネの目からは、エティエンヌにもいくらか優れた所があるように見える。なぜ世間で悪評ばかりが広まっているのだろうか。


「わかんねえ……」


 漏れ出た言葉に、ジャックが反応した。


「どうなさいました」

「ああ。わかんねえんだよ、こいつのことがな」


 眠る本人を起こさないよう、小声で囁く。


「小心者なのか大胆なのか、見栄っ張りなのかそうでもないのか。見るたびに人柄が違ってて、どれが本当のこいつなのかわからねえ」

「本当の……殿下、ですか」


 ジャックは、どこか寂しげに目を伏せた。


「ルネ様は、幼い頃の殿下をご存知ですか」

「霊山に行く前、少しだが見かけたことはあるな。四つか五つくらいの時に」

「どのような印象でしたか」

「あんまり覚えてねえが、内気そうだとは思ったな。ただ穏やかな顔はしてた。今みたいな陰気な感じはなかったな」


 ジャックは何度も大きく頷いた。


「私にとっては……それが『本当の』殿下です。優しくおとなしく、常に兄君たちから一歩下がって笑っているような」

「ずいぶん今の印象と違ってるが」


 ふたたびジャックは頷いた。だが今度は、表情にかすかな憂いを感じる。


「ある出来事をきっかけに、殿下は父君の信を失いました。以来ずっと、父君は殿下を不出来の子として扱い続けました。地位も家臣も与えず、ことあるごとに惰弱だじゃくの子として罵り続け……そうして、今の殿下があります」


 やはり、エティエンヌとヴィクトールの間には何かがあったのか。

 真実を知るのは少しばかり怖かった。だが今を逃せば、次に聞き出せそうな機会はいつ訪れるかわからない。


「何やらかしたんだ? ヴィクトールは好悪をはっきり示す男だったが、実の子がそうまで憎まれる理由は、ちょっと想像つかねえ」


 ジャックは深い溜息をつきつつ、エティエンヌの様子を確かめた。話題の主は長椅子の上で、相変わらず身じろぎもせず眠りこけている。穏やかな寝顔には、幼き日のあどけなさもいくらか残っているように感じる。


「今から話す件について、殿下御本人に問い質しはなさらないでくださいね。快い思い出ではないでしょうから」


 聞こえるぎりぎりの低い声で、ジャックは囁くように話し始めた。

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