鶏と白湯

 ジャック曰く。

 エティエンヌが十歳の頃、ヴィクトールは贈り物として一羽のひよこを与えた。動物が好きだったエティエンヌは大喜びで、さっそく愛らしい名前を付け、毎日手ずから餌を与えてかわいがった。当時から仕えていたジャックも、ひよこの世話をたびたび手伝わされた。だがエティエンヌの幸せそうな顔を見れば、苦にはならなかったという。

 やがてひよこは鶏に育ち、王城の中庭ではエティエンヌと鶏がよく一緒に遊んでいたという。

 だがある日、ヴィクトールはエティエンヌに命じた。鶏を絞めてスープにせよ、と。


「いや、それはちょっと無茶じゃねえのか」


 ルネは思わず口を挟んだ。


「俺は料理を作るのが仕事だが、名前まで付けて大事にした生き物を料理しろって言われたらちょっと無理だぞ」

「私も同意見ですが、父君はそうは思われなかったようです。人は他の生物を犠牲にして生きている、その業は受け入れねばならぬと。そして将来統治者になるのであれば、己の身を切る決断もせねばならぬと」


 背筋に寒いものが走った。あいつは、たった十歳の子供に何をやらせようとしたんだ。

 言葉を失っていると、ジャックはさらに先を続けた。

 エティエンヌは結局、鶏を絞めることができなかった。この子を殺したくないと、ヴィクトールに取りすがって泣きじゃくったそうだ。足元で泣く自分の息子を、ヴィクトールは恐ろしいほど冷ややかに見つめていたという。


「あの時、父君は殿下を見放されたのだと思います。あまりにも理不尽な理由だとは思うのですが……兄君たちにもひよこは与えられていましたが、世話を従者に一任されたり、自ら手を下すことを厭われなかったり。殺せなかったのは、殿下ただひとりだったのです」


 ジャックは唇を噛んだ。

 その日の晩餐の席、王家の人々には鶏肉のスープが供された。だがただ一人、エティエンヌの前にだけは、スープ皿に入った湯が置かれた。具も何もない白湯だった。己が食物さえ自ら賄えぬ惰弱だじゃくの子にはふさわしいと、ヴィクトールは笑っていたという。


「他の人間はどうしてたんだ? 止める奴はいなかったのか!?」

「皆、一緒に笑っていました。父君に意見できる方など、あの頃の王室にはおられませんでしたからね。私は当時も毒見役を拝命していましたが、白湯を毒見した時の……その、気持ちは……なんとも、こう、名状しがたく――」


 ジャックの言葉は何度も止まり、最後に完全に途切れた。

 あいつは何考えてんだ、との思いが、ルネの脳裏をぐるぐると回った。たった十歳の、しかも己の実の子に、何を考えてヴィクトールはそんな仕打ちをしたのか。


「以来、殿下には兄君たちより一段劣る食事が供されるようになりました。肉や果物が減らされていたり、ひどい時には抜かれていたり。露骨な軽蔑の視線を浴びせられ続け、次第に殿下は健やかな食欲を、やがて笑顔を、失っていかれました」

「あいつの食が細いのは、そのせいだったのかよ……」


 ジャックは唇を噛みつつ頷いた。

 めちゃくちゃな話だった。ルネが「死んだ」後、ヴィクトールはどうなってしまったのか。ルネがいた頃、既に狂い始めていた歯車は、どこまで壊れてしまったのか。

 ヴィクトールの所業が、あまりにも理解できなかった。だが同時に思った。

 自分がいたなら、止められたかもしれない。

 少なくとも、罪もない幼子を辱めるような料理は作らなかった。命令されても拒んだだろう。己は「神の料理人」、すなわちヴィクトールに対等の口がきける立場だった。何か意見することもできたのではないか。他の料理人が逆らえなくとも。

 そもそも、自分が傍に居続けたなら、ヴィクトールはもう少し正気でいられたかもしれない。眠れぬ晩に夜食を差し入れ、愚痴のひとつも聞いてやれば、変な考えなど起こさなかったかもしれない。

 悔い含みの考えばかりが、際限なくあふれ出ていた。何も言えずにいると、急にジャックは彼の手を握ってきた。


「ルネ様。どうか、殿下のお話相手になってはくださいませんか」


 大きな目が、真剣にルネを見つめていた。


「我々は、無理に助力をお願いした立場です。過大な要求はできないと承知しております。ですが」


 ジャックは、眠るエティエンヌに視線を落とした。すっかり力の抜けた顔には、苦しみを知らなかった幼い日の面影が、少しばかり表れているようにも思える。


「あの日以来ずっと、殿下は孤立無援でした。父君からは不肖の子と蔑まれ、兄君たちからは侮られ、王室内に頼る相手もなく、私の他には仕える者もおらず。それでいて何の因果か、父君の名を継ぐことを突然求められて」


 ジャックの大きな目に、わずかな潤みが宿っている。


「支えてほしいとは申しません。せめて、蔑みも侮りもしない話相手を、ひとりでいい、この方のために――」

「わかった」


 ルネは頷くしかできなかった。この状況で、首を横に振れる者がいるだろうか。

 胸に沈むいくばくかの悔いも、継ぐべき言葉をしきりに促してくる。


「ただ、俺はあいつの――ヴィクトールの『友』だ。少なくともあいつにはそう思われていた。そんな俺で、かまわねえのなら」

「心より感謝いたします。ルネ様」


 ジャックの表情が一気に晴れた。人好きがする笑顔を満面に浮かべながら、ジャックは何度も深く頭を下げた。


「殿下について気がかりがありましたら、なんでも私にお訊ねください。幼少のみぎりからお仕えしておりますので、殿下のことでしたら、誰よりもよく知っております」


 ふと思った。以前曲解された質問にも、今なら答えが得られるかもしれない。


「じゃ、最初にひとつ訊きてえんだが。あんたから見て、この王子様の良い所ってどこだ」


 黒髪童顔の従者は、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに口角を上げた。


「あの日の夜、殿下は私の部屋を訪ねてこられました。赤く泣き腫らした目で、手には件の鶏を抱いて。そして仰るのです、この子の面倒をみてくれないかと」


 ジャックの目尻から、滴が一筋落ちた。


「承諾すると、殿下は真っ赤な目を細めて喜ばれました。よかったね、ここで元気に長生きしてね、と……その後も殿下は毎日、私の部屋に鶏の餌を持って来られました。鶏が天寿を全うするまで、ずっと」


 涙をこぼしながら語る表情は、輝くばかりに誇らしげだった。


「殿下は中庭に、密やかに鶏の墓を作られました。あの日、小さな命に祈りを捧げる御姿を見て、私は誓ったのです。この御方に生涯を賭してお仕えすると……他のすべての人々に蔑まれようと、敵とみなされようと、せめて私だけは、命尽きるまでこの御方を守り通すと」


 慈母の微笑みで、ジャックは眠るエティエンヌを見つめた。


「殿下はいま、極度に疲弊しておられます。父君の跡を継がねばならぬ、厳しく強くあらねばならぬと、気を張っておいでです。ですが弱い者をおもんばかる気持ちだけは、昔からお変わりないと……私は感じております」

「……そうだな」


 言われてみれば、そうかもしれない。

 ルネがエティエンヌを多少なりとも見直したのは、いつも弱い者が関わる時だった。殺されて肉を取られた火蜥蜴サラマンダーを思いやったり、怯える民間人に生命と安全を保証したり。自分より弱い者を想う時、エティエンヌは王の器を見せる。

 強い相手には虚勢を張り、弱い相手には慈愛を表す。そう考えると、ずっと支離滅裂に見えていた彼の行動は、概ね説明がつくように思える。

 わかってみれば、意外に好ましい奴だとルネは思った。少なくとも逆の輩――強きに媚び、弱きに偉ぶる――よりは、はるかに王として適格な人物に思えた。ただひとつ、ヴィクトールに惰弱の子と扱われ続けた理由だけが、ますます理解できなかった。


「とはいえ俺の魔法に頼りきりなのは、なんとかしてほしいがなあ」


 これ見よがしに溜息をつきつつ、ルネはあらためてエティエンヌの寝顔を見た。

 王子は相変わらず無防備に寝息を立てていた。癖のない金色の髪を揺らしながら、わずかにあどけなさを残した表情で、安らかに眠りこけていた。

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