勝利の日
市中の状況を諸将に確認させつつ、ルネはエティエンヌ麾下の部隊と共に城内の状況を確かめた。幸い、食糧も財貨も多く残されていた。特に小麦をはじめとした各種穀物は、ある程度の籠城に耐えうる備蓄が残っていた。貴族連合側は、この早さで決着がつく想定をしていなかったのだろう。正確な量を調査するよう兵站担当者に伝えれば、横で、エティエンヌが安堵した表情で目尻を下げた。
「これで、市民の財産をあるべきところへ返せる」
「って、返すのかよ!?」
驚いて横顔をまじまじと見つめる。が、王子はどうやら本気のようだった。
「貴族連合が、占領地で市民に重税を課しているとは聞き及んでいる。不当に奪われた財貨は、あるべきところへ返すべきではないだろうか」
「いまは戦時中だぞ?」
言えばエティエンヌは黙り込んだ。こいつの優しさは美徳だと俺は信じているが、適切な状況判断を伴わなければ逆効果にもなる。
「まだまだ貴族連合の勢力は強い。本気で民を守りたいなら、この軍資は奴らを潰すために使った方がいい」
「そういう……ものだろうか」
不満げに首を傾げるエティエンヌを見ていると、不意にひとつのひらめきが降ってきた。
「じゃあ、こういうのはどうだ」
浮かんだ案をそっと耳打ちすると、憂いがちに細められていた青い目が、ぱっと見開かれた。
◆
ずいぶんと人の良いことでございますね、と、ギヨームは太い腹を揺らして笑った。
「まこと、ヴィクトール前王陛下とは似ていない御方でございますねえ。前王陛下の心証がよろしくなかった理由も、察せられるというもの」
「まあ、な。あいつが耳にしたら、怒るか笑い飛ばすかのどっちかだったろうとは思う」
取扱品目の一覧を見ながら、ルネは首を振った。
「ま、どっちにしろ、必要なものは揃えなきゃならねえ。頼むぜ」
「喜んで。代価さえいただければ、ご用立てはいくらでもいたしますよ。それが商人の生業ですので」
厨房の隅で書類に羽ペンを走らせつつ、ギヨームは満足げに目を細めた。
「本当に危なっかしくて仕方がねえ。優しいのはいいんだが、優しいだけでやっていける仕事じゃねえからな、王様ってのは」
「王は国家にただひとり、無二の重責を負う御方。いつの世もままならないものでございます。完璧な王など存在しません。先王の傍にずっとおられたルネ様であれば、おわかりでしょうに」
「まあな。だがたまに不安にもなる。今日みたいなことがあるとな」
「ならば、ルネ様が支えてさしあげればよいでしょう。年長者として」
書き終えた発注書を、ギヨームはルネに示した。伝えた注文内容は正確に転記されている。演出用にと頼まれていた火蜥蜴の肉と、護身用の金枝芋を在庫分すべて。そして市民配給用の、大量の麦と保存食。
「ご注文内容、こちらで間違いございませんね」
「えらく高くねえか?」
項目の並びは何度見ても正しい。だが合計が異様に高額だ。十数年前、ルネが王城で働いていた当時の倍近い単価だ。
「今は戦時ですからね。平時と比べて値が上がるのは致し方ございませんよ」
「だからって火蜥蜴肉と金枝芋まで、ここまで高いのはおかしいだろ。幻獣や神聖植物の食材は、俺以外にはただの贅沢品だ。戦時に需要は減ってると思うんだがな」
「値を決める要素は、需要だけではございませんので。入手手段や流通手段も、終わらぬ
言われても、なお腑に落ちない。言い分は解るが、こうも何もかもが一律に値上がりするものだろうか。
首を傾げていると、ギヨームは発注書を手元に引き戻す仕草をした。
「納得いかないようでしたら、取引の中止も可能ですが」
「しょうがねえな。かまわねえよ、それで」
しぶしぶ発注書に署名をした。食材調達に関して、この小太りの初老男以上に頼れる存在はいない。最終的には言われれば従うほかない。
ルネの名を記した書類を差し出せば、ギヨームは満足げに笑った。
◆
翌日、王城の庭には大勢の市民たちが集まった。ヴィクトールが即位宣言をした日と同じように。
ルネとエティエンヌは頷き合い、手を取り合ってバルコニーへ出た。ふたりの姿を認めた衛兵たちが、敬礼の姿勢を取る。やや遅れて、市民たちが歓声をあげ始めた。叫びに混じるエティエンヌの名に、本人が手を振り応えている。目尻にわずかに潤みが見えた。
だが、ルネには嫌な感じがあった。
歓声にどこか切迫感がある。純粋な喜びや期待の声ではない。かつてヴィクトールと共に浴びた熱狂とは、明らかに質が異なる。極限まで疲弊しきった者たちが、最後の望みとして垂らされた一筋の藁に縋っている――そんな危うさが場に満ちていた。
この熱狂は細い糸で支えられたものだ。切れれば容易に、失望と悪意に反転する。
エティエンヌが高らかに声を張り上げる。
「王都ブリアンティスの市民たちよ。悪辣なる反逆者たちの圧政は、今ここに終わりを告げた。我、エティエンヌ・ド・ヴァロワは、フレリエールの正統なる王家の復権をここに宣言する!」
言葉は堂々たるものだ。だが体格の違いからか、声の力が弱い。父親のような圧をどうしても欠いている。
眼前に赤い輝きがひらめいた。火蜥蜴由来の炎の輪が、エティエンヌの前に浮く。かつてヴィクトールが示したものと同じように。
「我は、父ヴィクトールの『神の料理人』をも得た。これこそ、天が我が王権を認めた明白な証である!」
王家の正統な後継者であると示すための、必要な演出ではあった。だがどうにも気持ちが悪い。この王子は、あの非情な前王とはまったく異なる人間であるはずなのに。
ルネの煩悶をよそに、エティエンヌはさらに声を張り上げる。
「我に従う者は、炎の加護で守られるであろう。しかし我に逆らう者は、聖なる炎によって焼き尽くされるであろう!」
かつてのヴィクトールと同じ言葉。胸の奥がひどく痛む。
だが違うのはここからだ。ざわめく群衆に向け、エティエンヌはさらに言葉を続けた。
「だが我は、できることならば炎による断罪を望まない。この地に住まう者たちは、皆等しくフレリエールの民である。昨日まで誰に味方していたか、それはもはや問題ではない。ゆえに我は誓う――」
エティエンヌは一度言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。そして、高らかに宣言した。
「――ここで我が声を聞きし、すべてのフレリエールの民よ。我は、この命を賭けて汝らを守り抜く!」
階下から、戸惑い混じりの歓声があがった。
声の圧が多少足りなかったとはいえ、立派な演説だったと思う。それでもヴィクトールほどの熱狂を得られないのは、喧伝された悪評のせいもあるだろうか。もどかしさを感じる。
だが、だからこそ補佐も重要だ。ルネは前へ一歩進み、バルコニーの縁から身を乗り出した。
「王都ブリアンティスの市民たち。俺は『神の料理人』ルネ・ブランシャールだ。今日の佳き日を祝して、エティエンヌ王子から贈り物がある」
ルネの言葉と同時に、階下に兵士の一群が現われた。中央には大きな盆がいくつも並び、上には小麦色に焼けたパンが山をなしている。ルネが、宮廷料理人たちと共に夜通し焼いたものだ。他の料理人たちは不満そうだったが、どうにか宥めすかして必要な量を用意した。
「皆、これまでの戦で腹を空かせてるだろう。このパンは、エティエンヌ王子の慈悲の証。一人一個ずつ、心して食え!」
すさまじい歓喜の声が、階下からあがった。
今回使った小麦粉の量は、備蓄全体からすればごく限られたものだ。だがエティエンヌの人柄を印象付けるには、これほど効果的な演出もないだろう。人は胃袋を掴まれれば弱い。飢えている今ならなおのこと。
「量は十分用意してある。焦る必要はない、落ち着いて並ぶがいい」
熱狂する民へ、エティエンヌが声を張り上げる。兵士たちが民を誘導し、何本もの列を作り始めたのを見届けて、ルネは階下へ向かった。
香ばしい匂いが漂う中、民に次々とパンが渡る。ルネも配り手に加わり、掌ほどの大きさのパンを、ひとつひとつ手渡していった。
幾人か、ルネに怪訝な目を向ける市民もいた。かつての老いた姿を知っている者たちだろう。だが熱狂の波の中で、疑念の視線は押し流されていった。後できちんと説明しないとな、とルネは思った。
ともあれ、料理人一同が焼いたパンたちは、大きな歓喜と共に市民に迎えられた。その場でかぶりつく者、大事そうに抱えて持ち帰る者。どの目にも喜びの色があった。
身の内がじんわりと熱くなった。
今回ルネが作ったのは、魔力も何もないただのパンだ。それでも喜びと共に迎えられる。涙を流して感謝される。
たとえようもない充足感がルネの身を満たしていた。
「エティエンヌをよろしくな。これは、あいつの心の証だ」
聞かれているかどうかはわからない。だが少しでも、耳に残っていてくれればいい。
願いつつルネは、長蛇の列の民たちに、ひたすらにパンを渡し続けた。
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