王都ブリアンティス奪還戦
翌日の夜、ルネとエティエンヌは東門と南門に分かれ、それぞれに幻影の軍団を送り込んだ。その翌日は、二人で南門に。さらに翌日と翌々日は、ふたたび東門と南門へ。
あれは幻なのだとの認識が、敵軍に広がり始めたであろう五日目の夕方。ふたりは王都を眺めつつ、最後の茶会を楽しんだ。夜に備えた仮眠から起き、常のようにバルコニーで茶を酌み交わした。うず高く盛られたギモーヴを、時折ハーブティーに溶かしながら。
たくさん食えよ、との言葉は、あえてかけなかった。やるべきことはわかっている。余計な圧は掛けない方がいい。
「おいしい、とても」
これまでに倍する量のギモーヴを食べる間、エティエンヌが発したのはその一言だけだった。これまでにない緊張が、ふたりを包んでいた。
バルコニーの向こうでは、王都ブリアンティスの城壁が、傾き始めた西日に照り映えている。上空にたなびく雲と、白い城壁とが、共にほんのりと赤味を帯びて輝いていた。薄赤を帯びた白が、できればこれ以上の赤――血と炎に染まらずにすむようにと願わずにはいられない。ギモーヴはそのために用意したものだ。
ちらりと横に目を遣れば、食べ終えたエティエンヌも、王都の方角をじっと見つめていた。横顔に、隠しきれない緊張と憂いの色があった。
◆
その夜、ようやくヴァロワ王家軍は本物の兵を動かした。
兵士たちに白塗りの扮装を施したうえで、破城槌を備えた主力部隊を東門に結集させた。白の軍勢は、遠目には幽鬼の兵と見分けがつかない。ヴァロワ家の象徴色が白であり、兵たちの装いが元々白かったことも、今回は幸いした。
ルネとエティエンヌは、少数の別働隊と共に南門へ向かった。東門の攻撃開始予定に合わせ、ふたりはこれまでで最大数、五百体ほどの幻影兵を生んだ。青白い大軍団の進撃開始を見届け、ふたりは急ぎ東門方面へ向かった。
東門の戦況は、期待通りに展開していた。門は既に破城槌で破られ、城内侵攻が始まっていた。
敵側に、幻影相手との油断があったのは間違いない。だが今夜の兵は本物だ。より正確には、東側だけが本物だ。南はいままでどおりの幻影。
東と南、戦力を割くべきはいずれか――敵方が正解を知る前に、できるだけ深く懐へ飛び込む。
「いくぜ、エティエンヌ!」
「ああ!」
兵士たちに交じり、ふたりは城内へ突入した。
肩を並べ、身の内のマナを解放する。霧が一帯を覆い、青白い幽鬼の群れとなって街路を埋めた。
移動し、さらに幽鬼を生む。行く先々が幽鬼たちであふれかえる。
宵闇の中、幽鬼の兵と本物の自軍兵との区別は、生み出したルネにさえ難しくなっていた。敵兵にとってはなおさらだろう。無数の幻に囲まれ、敵軍の兵が次第に恐慌状態に陥っていくのが感じ取れた。
至る所から聞こえる、言葉にならない恐怖の叫び。
でたらめな方向へ振り回される、剣や槍。
とんでもない威力だな――と考えた瞬間、ふと、ギモーヴのやわらかな甘さが舌の上に蘇った。心地良かったはずの風味が、今はただ空恐ろしい。冷たくはない夜気の中、肌が粟立つ。
阿鼻叫喚の中、ふたりは王城へ駆けた。精鋭兵に護られつつ大通りを進めば、さしたる抵抗も受けないまま、懐かしい城門へたどり着いた。
槍を構える番兵の目に、一瞬の惑いが見えた。幻影か本物か――わずかな隙は、精鋭の剣の前では命取りだ。またたく間に番兵たちが打ち倒され、血の臭いがむわりと立ち籠めた。
「ようやく、ここまで来た。我が父祖の城」
エティエンヌが、感慨深げに城を見上げる。白くそびえ立つ王城の威容は、ルネが出ていった十数年前のあの日から、まったく変わらない。
「まだ終わってねえよ。行くぜ」
ちらりと目配せをしてやれば、エティエンヌは深く頷いた。
精鋭たちと共に城内へ突入する。中庭にメイドや使用人たちが集められていた。隅に固まって震えていた非戦闘員たちは、エティエンヌの姿を認めると一斉に大きな息を吐いた。安堵なのか落胆なのかは、はかりかねた。
「殿下。おかえりなさいませ」
「貴族連合の盟主を探している。おまえたち、所在を知らないか」
言えば、メイドたちは顔を見合わせた。
「ベルナール様でしたら、援軍要請のために出立なされました。三日前、つまりは開戦当日の未明でございましたが」
「では、ここで戦いの指揮を執っているのは」
「代理の副官でございます。御本人はもう既に――」
エティエンヌと顔を見合わせる。
門の方から多くの靴音が聞こえる。味方の軍勢が次々と城内へ突入してきていた。
やがて大きな鬨の声と共に、貴族連合盟主ベルナール・ド・アンジュー討伐の歓声があがった。大きな喜びが思い違いであることを、伝えねばならないのは気が重い。
王都奪還は成った。だが禍根は残ったままであるように見えた。
◆
長い夜が明けた。
幽鬼の兵は既にいなくなっていた。混乱の中で捕縛された敵兵たちは、朝日の中でヴァロワ家の軍勢を目にし、数の少なさに驚いたことだろう。ルネとエティエンヌが作り出した幻影兵は、すべて足せば本物の兵と同数くらいにはなっていた。加えて市街での戦いでは、敵軍の総数を推し量ることも困難だ。敵兵たちにとって、王家軍の兵力は実際の三倍から四倍くらいに映っていたかもしれない。
だが、真実を知った敵兵たちが真っ先に抱いたのは、騙された悔しさではなかったようだ。朝日の中でなお、兵たちの目には色濃い怯えの色があった。
幽鬼の兵は幻だった。だが幻がもたらす恐怖は、現実に爪痕を残した。宵闇の中の混乱と絶望は、敵兵たちに確かな傷として残っていた。一割ほどの兵が心を壊して戦えなくなっており、残りの半分ほどが恭順を申し出てきたと、ルネはエティエンヌから聞かされた。
「もう少し犠牲の少ない方法が、あればよかったのだが」
エティエンヌは暗い表情で嘆息した。
「命の犠牲は最小限に留めた、つもりだ。ベルフォレの時と同じくな」
「確かに、死者や負傷者は可能なかぎり少なくできたと思うが――」
憂いに満ちた横顔が、ゆっくりと横に振られた。
「――身体が五体満足でも、魂に傷を負っていたなら、それは健康と言えるのだろうか」
「まあ、言わんとすることはわかるが」
ルネは、エティエンヌの背を強く叩いた。
「誰も傷つかない戦争とか、どう考えても無理だからな。俺たちはできるかぎりのことをやってる。どこかで割り切らなきゃ、先に進めねえ」
整った横顔が、溜息と共にうつむく。憂いに満ちた表情を、ルネは美しいと思った。
ヴィクトールが見ていたら、それこそ惰弱の証として罵倒してきたのだろう。だがこの「弱さ」は美徳だと、ルネは確信していた。この徳を失わないかぎり、この王子は、未来の王は、父親の轍を踏まずにいられるだろう。
無論、弱さゆえに判断を誤る可能性もある。だがそこを補佐するのは、傍の年長者の役目だ。
「あまり気に病みすぎるな。だが、全部を割り切れとも言わねえ。そうして心を痛められるのは、あんたのいいところだ」
背をさすりながら言ってやれば、横顔はかすかに微笑んだ。
「ありがとう、ルネ。私に長所があると言ってくれるのは、ジャックとあなただけだ」
憂愁を含んだ微笑みが、美しい。
それゆえにもどかしい。世間の連中は、どうしてこの男の美徳に気付かないのか。気付いていても見ないようにしているのか。
認めさせてやりたいと、ルネは思う。次の王となるべき者なのだから、なおのこと。
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