渇望
「殿下!」
ジャックの叫びが聞こえる。ルネの首から、空気が締め出されていた。
意識が遠のきかけたところで、エティエンヌの手は少し緩んだ。ぜえぜえ言いながら、ルネは懸命に空気を取り込む。
エティエンヌは首に手をかけたまま、普段よりずいぶん低い声で言った。
「あなたは聞き及んでいますか。父の最期の様子を」
「知らねえ。聞いてねえ」
知っているわけがない。四年前に死んだとだけは知っているが、他の詳しい話は伝わってきていない。霊山の奥深くに、噂が流れてくるわけもない。
「あなたが不老不死の探求に出て以降、父はずっとあなたの身を案じていました。誰もあえて、父にあなたの『死』を伝えられなかったほどに。
ルネの胸はわずかに痛んだ。自分はヴィクトールにそこまで想われていたのか、と感慨を覚えつつも、引っかかる言葉があった。
「『聞いています』って言ったな。あんた、あいつの死に目に――」
「会っていませんよ。呼ばれませんでしたから」
声に宿る憎悪が、増した。
「私は、死の床に招かれさえしなかった。今生の別れに際してさえ、私は無用の子だったのですよ。……あなたは愛されていた。実の子よりも、ずっと」
ふたたび、エティエンヌの手が首を締め上げる。
「だのになぜ、貴様は逃げた? 死を偽って、辺境で遊び暮らしていた?」
口調が急に荒くなった。
青い瞳が、ふたたび殺意に染まっていた。
「肉親よりも愛され、何不自由ない身分と暮らしを与えられてなお、何が不足だったのだ?」
手が少しばかり緩む。だが、それは解放を意味していなかった。
「答えろ。なぜ貴様は逃げた。誰よりも愛され誰よりも重用された、そのすべてを棄て去って、なぜ、のうのうと遊び暮らしていられた」
目の前には憤怒の形相。答え次第では本気で絞め殺されそうだ。
だが、返すべき態度は明白だ。いま必要なのは「正しい答え」ではない。
ルネは、そっとエティエンヌの手の甲を撫でた。首を包み込むように、エティエンヌの掌とルネの掌が重なる。
「あんた、欲しかったんだな。俺が得ていたなにもかもが」
瞳の中の怒りが、一瞬で凍りついた。
「そうだよな、あんたは小さい頃に見てたはずだからな……『神の料理人』としての名声も尊敬も、魔法の力も。そしてヴィクトールの寵愛も。全部、欲しくてしょうがなかったんだろ」
掌が、小刻みに震えはじめた。
「自分が欲しいものを全部持ってて、そのくせ全部捨てていった。そんな奴がいたら、そりゃまあ確かに殺したくもなるよなあ。わからなくは――」
「貴様に何がわかる!」
瞳に憤怒が戻った。手の震えはますます酷くなる。
「せめて、罪の意識はあると思っていた。だのに貴様は悪びれもせず、父の死を告げても国の窮状を訴えても、関係ないことと笑っていた。なぜ、あのようなことを言えた」
エティエンヌの怒りは、不思議なほどすんなりと、ルネの胸中に落ちてきた。
エティエンヌの目に、ルネの十数年は安楽の年月と見えているのだ。何の痛みも苦しみもなく、霊山でただ遊び暮らした日々と信じているのだ。
ならば今、ルネがすべきことは、素直に問いに答えることではない。下手な答えは火に油を注ぐ。肝心なのは、問いが発された根本を探ることだ。長年生きていれば、そのあたりの機微はわかってくる。
「……ごめんな」
ルネは、できるかぎり柔和な笑顔を作った。
「あんたが受け取るはずのもん、俺が盗って行っちまったんだな。すまねえ」
「罪の自覚は、あったということか?」
「後悔はしてる。今となっちゃあな」
ルネはふたたび、エティエンヌの手を撫でた。
「すまなかったな。助けてやれなくて、な」
青い瞳が激しく瞬いた。
「俺がいたなら、止められたかもしれねえのにな。罪もない幼子を辱めるような真似、俺がいたら絶対に――」
「貴様に哀れまれる筋合いはない」
声にまで震えが表れてきた。
「軽んじられたのは、私が惰弱だったがゆえ。おまえの庇護など関係ない」
「本当にそうか?」
ルネは疑問を投げかけた。少なくともルネが見るかぎり、エティエンヌはまったくの無能ではない。いくらかは良いところもあると、既に知っている。
「俺は、あんたが言うほど弱いとは思ってないぜ。ヴィクトールの奴、何か勘違いしてたんじゃねえのか」
「誤認ではない。もしそうであれば、十年以上も同じことを言われ続けはしなかっただろう」
エティエンヌは目を伏せた。
「何度も父になじられたものだ。決断力も威厳もない、目先の慈悲しか目に入っておらぬ柔弱な子と。何の取柄もないできそこないと。……わからんだろうな貴様には。無二の才覚と力を持つ『強い』人間には」
不意に、エティエンヌの手が解かれた。長身が床へ崩れ落ちた。
「貴様を得れば、強くなれると思っていた。だが強いのは結局、貴様だけ。強い者を隣に置けば、際立つのは私の弱さばかり。大きな勝ちを得ても、強くなるのはおまえの輝きばかり。弱い者は、ただ傍らで侮られるだけ」
青い瞳から、光るものが床へ落ちた。
「強く、なりたい。誰もが認めるような、強さがほしい――」
うなだれた顔から、さらに幾粒もの滴が落ちる。
そんな思いで、こいつはずっと戦ってきたのか。自分が望むすべてを持つ相手の横で、己が「持たざる者」だと常に意識させられながら。
だが、その心持ちは変えてもらわなければ困る。次の戦は、すぐそこに迫っている。
「言っとくがなエティエンヌさんよ。その条件はヴィクトールの奴も変わらねえぞ……あいつは魔法を使えない、ただの人間だ」
「魔法の行使を許された、唯一の王ではあっただろう」
「別にそんなこともないぜ。原理を考えりゃ、誰でも魔法料理さえ食べりゃ魔法は使える。正統の王しか使えねえってのは、あいつが皆にそう信じ込ませただけだ」
ルネはエティエンヌに歩み寄り、肩にそっと手を置いた。
「あいつはな。一緒にいると、『呑まれちまう』んだよ」
エティエンヌが目を見開いた。この言葉は思ってもみなかったのだろう。
ルネはさらに続けた。
「あいつは強いところも弱いところも色々あった。だがあいつが際立って強かったとすりゃあ、人に何かを『信じ込ませる』のが異様に上手かった。魔法は王だけが使えるとか、魔法の力を自分の力みたいに思い込ませるのとか、あとは、たとえば――」
肩をぽんぽんと叩く。
「――素直でかわいい良い子を、『惰弱』とか『無能』とか信じ込ませるのも、な」
肉の薄い背が、大きく震えた。
「それは、信じ込まされたわけではない。ただの事実――」
「繰り返すが俺は、あんたを無能とは思ってねえぞ」
わななく背を、強く叩く。
「百歩譲って能無しだとしても、だったら他の能力ある連中を巧く使えばいい。例えば、どっかの『王冠』とかな」
ルネは親指を己が胸に向け、声をあげて笑ってみせた。
霊山から連れ出された時は、こんなことを言う日が来るなど想像もしていなかった。が、傷つき迷える若人を前に、見放すわけにもいかなかった。ジャックの言葉通りなら、孤独の王子の味方は、今も昔も従者がただ一人だけなのだろうから。
「使えるものは何でも使いな。全部を自分でこなすのが、王様の仕事じゃねえだろ」
エティエンヌが王として適格な人物なのか、ルネにはわからない。
だが、王として適格な人間など、はたしてこの世に存在するのか。ヴィクトールも完璧な存在ではなく、晩年はあのとおりだった。ならば、不完全な存在を周りで支えてやるしかない。
王として以前に、傷を負い疲れ果てた若い魂を、せめて独り立ちできるまで支えてやらねばとも思う。若人を導くのは年寄の責務だ。
エティエンヌは涙を流し続けていた。滴がやがて筋となり、とめどなく流れ落ちていく。くぐもった嗚咽の声が漏れ始めた。
「……殿下」
これまで口を出してこなかったジャックが、エティエンヌの目の前に屈み込んだ。
「ルネ様は信用できる御方です。わだかまりはこの機会に――」
「わだかまり、など……では」
エティエンヌの言葉は、続かなかった。
屈み込んだままの王子は、ゆっくりと首を振りながら、ただ声を潜めて泣き続けた。
◆
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に大きな腹の虫が鳴った。エティエンヌだった。
「……殿下?」
ジャックが微笑みつつ声をかける。
あえて、ルネは大笑いしてみせた。テーブルからコカトリスの
「泣き疲れて腹減ったんだろ? やっと、胸の内から余計なもんが抜けてくれたか」
金髪を一本に結わえた後ろ頭が、ゆっくりと起こされた。真っ赤に泣き腫らした目からは、憎しみも殺意も嘘のように消えていた。
「まるで子犬でも誘うように……ですが、ありがとう、ございます」
エティエンヌは目尻を下げ、ふっと笑った。表情に、わずかなあどけなさがある。直前の言葉のせいか、綿毛のような子犬が尾を振る様子が、笑顔に被った。それでいて、切れ長の目元も通った鼻筋も凛としている。
優美な顔立ちに、ランプの薄明かりがやわらかな陰影を落としている。貴婦人たちが見たら、一目で虜になりそうな色男だ。ひとたび陰気さが抜けたら、こいつはここまでの美形だったのか。
エティエンヌは緩慢に起き上がり、テーブルに戻って肉を切り始めた。フォークとナイフの動きは滑らかで、ためらいもない。
ルネも向かいに座り、自分の皿に手をつけた。
「同じ飯を二人で食うの、いいもんだぜ。ひとりじゃないって心持ちになる」
エティエンヌは赤い目のまま、肉を何度も咀嚼しつつ、無言で頷いた。相変わらずの、うっとりするような微笑みだった。
やっぱりこの瞬間が、料理人冥利に尽きる――とルネは感じた。食材の
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