殺意

 何か言いたげに目配せしてくるジャックを、ルネは無視した。


「図星か。珍しくはねえんだよな、憂鬱のせいで飯が食えなくなる奴。心のわだかまりが胃袋に溜まっちまって、それで飯が入らないのかもしれねえぞ」

「私は……そこまで弱くはありません」

「強い弱いの問題じゃねえよ。人には生まれ持った性質ってもんがある。俺には俺の、あんたにはあんたの、ヴィクトールにはヴィクトールの性質がな。それは変えられるもんじゃねえ、胃袋の大きさも、心のありかたもな」


 ルネとしては、普遍の真実を説いたつもりだった。

 だが、エティエンヌの顔にはさっと朱が差した。青い目が鋭く細められ、痛いほどの怒りが伝わってくる。


「私に父のくらいは継げないと、そうおっしゃりたいのですか」

「そんなわけねえだろ! ただ、あんたがヴィクトールと別の人間なのは確かだ。別の人間は、どうやったってそっくり同じにはなれねえ。それはどうしようもない事実だ」


 ルネの胸中で、以前からの推測が確信に変わった。

 父の話になると、やはり彼は人が変わる。必要以上に憶病になったり、あるいは顔を真っ赤にして怒り始めたり。


「あんた、あいつと――ヴィクトールと、同じになりたいのか」


 一瞬、エティエンヌの視線が泳いだ。次の言葉を探すかのように、瞳が惑う。


「それが……私の役割ですから」


 絞り出すような、かぼそい言葉だった。


「父も兄たちも亡き後、王家を支持する人々の拠り所は私だけなのです。貴族連合が版図を拡大する中、望まれるのは強き王。私は、強くあらねばならない」

「でも強くねえだろ、あんた」

「ルネ様!」


 ジャックの叫びと同時に、陶器に物がぶつかる高い音が鳴った。

 エティエンヌが、フォークを皿の上に取り落としていた。幸い皿に傷は入っていないようだ。だが空になった手は小刻みに震え、青い目には激しい怒りの色が宿っている。


「……あなた、は」


 今にも掴みかかってきそうな形相で、エティエンヌがルネをにらむ。


「何のために私があなたを求めたか、理解しておられないようだ。なぜあえて危険な霊山に分け入り、生死もさだかでない相手を探したか」


 並の人間なら気圧されそうな怒気だ。だがルネは長年ヴィクトールの傍にいた。炎竜王の苛烈さに比べれば、息子の青臭い怒り程度は、彼にとって物の数に入らない。酸いも甘いも知った年寄にとっては、ある種の微笑ましささえも感じるほどだ。


「わかんねえな。なんでだ」


 ルネが素知らぬ風に言えば、エティエンヌは恐ろしく低い声で、無表情を装いながら言った。


「強くなるため、ですよ」


 淡々と言っているつもりなのだろう。だが、抑えきれない怒りが口調にも表情にも出ている。


「王に力を与えるのが、『神の料理人』の役割でしょう。ならば――」


 エティエンヌは席を立ち、ルネのもとへと大股に歩み寄った。


「――私を、強くしなさい」


 白い手が、ルネの胸倉を掴む。

 エティエンヌは痩せ型とはいえ、身長は高い。怒りに満ちた目で見下ろされれば、それなりの威圧感はある。


「あなたの力で、私を強くしなさい。そのために、私はあなたを求めたのですから」


 有無を言わさぬ気配があった。霊山で脅され、協力を強要された日と同じだった。

 そっちの都合を押し付けんじゃねえよ――そう叱り飛ばしたい気持ちはあった。ルネは剣で脅迫され、むりやり連れてこられた立場だ。エティエンヌの事情に付き合う義理はない。

 だが、ふと、ジャックの切羽詰まった顔が脳裏にちらついた。

 どうか、殿下のお話相手になってはくださいませんか――そう頭を下げてきたときの表情が、伝えてきた過去の傷が、思い出される。

 そこで、ルネはある矛盾に気付いた。

 エティエンヌの求めるものが、「神の料理人」のもたらす強さだとしたら、霊山での行動に不可解な点がひとつある。そこを突けば、この王子の本音が見えてくるのかもしれない。

 ルネは口角を上げ、できるかぎり不敵な笑みを作った。


「しょうがねえな。あんたがそう言うなら、強くしてやるよ――」


 言いつつルネは、両手をエティエンヌの背に回した。そして、できるかぎりの力で抱き締めた。


「――胸の中の要らねえもん、抜いたならな」


 腕の中で、エティエンヌがびくりと身を震わせた。

 動揺の気配が見える王子を見上げつつ、ルネは卓上の皿に視線を遣った。黄金に染まったクリーム煮は、もう湯気を立てていない。


「強くなるための皿は、とうに作った。こいつのマナさえ炸裂すれば、次の戦いは確実に勝てる……あとはあんた次第だ」


 ルネは、できるかぎりの優しい声音を作った。

 今だけは慈母の態度を見せてやる。そのほうが、あとの落差が大きくなる。


「吐いちまいな。いらねえものは全部。胸の内が空けば、胃袋にも物が入るようになるだろう」

「あなたには、わかりませんよ」


 エティエンヌの声は捨て鉢だった。内に澱む何かに、触れさせまいとしているようにも見えた。


「出会ったばかりのあなたに、私の胸中が理解できるはずがない。幼い頃から共にいたジャックならともかく」

「ああ、理解はできねえな。だが――」


 背に回した手で、背骨の上を優しく撫でてやる。肉の薄い背が痛々しい。


「――吐いたもんを受け止めるくらいは、できると思うぜ」


 ルネはふたたびエティエンヌを見上げた。


「俺は何度も見てるぜ、宴会で吐いちまう奴。そのたびにメイドたちが掃除してたけどよ、たまに前後不覚になって、抱えられた瞬間に戻しちまう奴もいてな。厄介な連中ではあるんだが――」


 手を解く。骨を感じる薄い肩を、優しく叩く。


「――吐き散らしてすっきりすんのも、宴の役目だ。遠慮なく俺にぶっかけちまいな。後始末はこっちでやるから、よ」


 返事はなかった。

 クリーム煮の濃厚な香りが漂う中、エティエンヌは動かずにいた。ルネも動けずにいた。発した言葉がどう受け止められたか、窺い知ることはできなかった。

 ややあってエティエンヌが口を開いた。


「父はどうでしたか。父もまた、あなたに弱音を吐いていたのですか」

「ああ、よく聞いてやってたぜ。執務中に夜食を持って行った時とか、よく、な。だから、なんでも吐いていいぜ。たとえば――」


 ルネはエティエンヌの手を取り、自分の首へ持っていった。白い掌が硬い喉仏に重なり、細い指が首筋を包み込む。

 賭けだった。一歩間違えばルネ自身の命を危険に晒す。

 だがこうでもしなければ、この王子様は本音をぶちまけないだろう。


「――俺を殺してえとか、な」


 エティエンヌの青い目に、ぎらつく光が宿った。ジャックが背後で息を呑む音が聞こえた。

 ずっと疑問だった。彼にとって「神の料理人」の力は最後の希望のはずだ。なくてはならないものだ。

 ならば霊山ではじめて会った時、彼はなぜ躊躇なくルネを殺そうとしたのか。

 ルネは山の中で、獣たちの気配と日々相対あいたいしていた。ゆえに解っていた。あの時の殺意は、間違いなく本物だった。

 この矛盾を突けば、何かが吐き出されてくるとルネは読んだ。細い身体の奥に溜まった、どす黒いものが。

 寝ている飛竜ワイバーンをつつき起こすような博打には違いない。だが、要らないものを身の内に溜められたままでは「神の料理人」としては困る。無駄な憂いは抜いて、食欲を多少なりとも増進させねばならない。


「なんでも言っていいんだぜ。俺を絞め殺してえとかな。剣で切り刻みてえとかでもな」

「そう……ですか」


 ルネは、あえて挑発的な笑みを作った。エティエンヌの瞳に暗いものが宿る。


「ならば、望みどおり」


 細い指に、不意に力が籠った。首が締め上げられる。


「殿下!」


 ジャックが鋭い声をあげる。だが手は止まらない。


「『神の料理人』様、あなたには感謝していますよ。あなたは我らの希望の光。ですが――」


 エティエンヌがまなじりを吊り上げる。ここまでの憤怒の形相を、彼が見せるのは初めてだった。


「――ルネ・ブランシャール。貴様は許さない。許せない」


 息が苦しい。

 げほげほと咳き込む。

 手の力が緩まる気配は、ない。


「殺してやりたい。いますぐにでも」


 いまやエティエンヌの双眸には、どす黒い炎が隠されもせず燃え上がっていた。

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