3章 傷心懐旧

コカトリスのクリーム煮《フリカッセ》

 リヴィエルトン攻略から四日が過ぎた。

 諸将は残党の追撃に、官吏は戦後処理に追われている。ほとんどの判断は現場がやっているとはいえ、最終的な決裁はどうしてもエティエンヌに回ってくる。書類仕事や報告会議に追われ、彼は息をつく暇もないようだった。

 休む余裕がないのはルネも同じだった。魔法による氷結渡河作戦の衝撃が人心に残っている間に、できるかぎり進軍すべく、既に次の仕込みは始まっていた。


「あいつ、今日はどのくらい食ってくれるか……」


 ぐつぐつと音を立てるフライパンを前に、ひとりごちる。

 爽やかな白ワインとローズマリーの香りが、辺りに濃密に立ちこめている。煮られている骨付きのもも肉は、今は三分の一ほど汁の上に顔を出していた。このまま汁気が飛んだら肉は完成だ。かかった金額を考えれば失敗はできないが、この調子なら今日も絶品の一皿ができあがるだろう。

 作っているのはコカトリスのクリーム煮フリカッセだ。一睨みで人を石に変えると噂される幻獣だが、フレリエール辺境に棲息する種に関しては、石化の能力まではないらしい。ただ目が合ってしまうと、極度の恐怖と威圧感で動けなくなるのは確かだそうで、危険な獣なのは間違いない。

 ゆえに食材としての価格も異様に高い。今回入荷できたのは十二食分、つまりはルネとエティエンヌの三食二日分だが、これだけで値が一個小隊の食料費一月分と変わらない。かさばらない分いい商材ですよと、ギヨームは笑っていた。

 それだけの貴重品、間違っても失敗はできない。クリーム煮自体は定番の調理法だから、目を瞑っていても大丈夫だろうが、包丁を持つ手に少々の震えは感じた。が、過去にはもっと希少で高価な魔法食材を扱ったこともある。緊張を楽しめるくらいでなければ「神の料理人」は務まらない。

 フライパンの上に、汁気がほぼなくなった。肉を火から下ろし、用意してあったソースを流し入れる。生クリームと卵黄を合わせたソースだが、卵は鶏卵ではなくコカトリスの卵を使っている。これで幻獣のマナも、特有の風味も、より濃厚になる。

 煮上がったコカトリス肉は、鶏肉に近い、しかし特有の華やかな甘さを伴った脂の匂いを立ち上らせている。白磁の皿に盛り、余熱で温まった卵ソースをたっぷりかけてやれば、黄金色に輝く見事なクリーム煮フリカッセができあがった。

 彩りのパセリを散らし、白木の盆に二人分を乗せて、エティエンヌの執務室へ向かう。


「入るぞ」


 室内からの返事がない。


「いるのか、王子様」


 なおも沈黙が続く。いなければ中で待つつもりで、扉を開けた。

 元はリヴィエルトン市長が使っていた執務室は、主が替わってたった四日で、ずいぶん雑然とした雰囲気になった。大机には書類が積まれ、床には荷物が山をなし、整理は追いついていない。

 部屋の奥、壁際の執務机で、一本にまとめられた金色の髪がゆるやかに上下に揺れていた。


「おい、起きてんのか王子様」


 大きめの声で呼べば、ようやく反応があった。


「ああ……すみません。お見苦しいところをお見せしました」

「見苦しいのは気にしねえが、調子は大丈夫なのか」

「心配要りません。たいした作業量でもありませんので」


 エティエンヌが、大机いっぱいの書類を脇へと寄せた。空いたところへ盆を下ろし、椅子を一脚、追加で横に据える。


「どう見ても、仕事が回ってねえんだが。厨房仕事でさえ、整理整頓は基本中の基本だ。どこに何があるかもわからないのに、まともな仕事なんざできやしねえぞ」

「仕分けはするつもりですが、片付けるための時間がなかなか取れず」

「それを、仕事が回ってねえって言うんだよ」


 エティエンヌは悔しそうに口を結んだ。空気に、わずかな気まずさが混じる。

 ジャックに「話し相手になってほしい」と言われて以来、折に触れてルネは王子に声をかけていた。だが会話はどうにも弾まない。毎回、気まずい沈黙に追い込まれて終わってしまう。

 うつむく相手に追い打ちをかけることもできず、ルネは話題を変えた。


「ま、とりあえず食え。美味いものでも腹に入れれば、疲れも多少ましになるだろ」


 皿へ向けて伸びかけた白く細い手が、引っ込められた。


「今は、ジャックがいませんので」

「そういえばいねえな。珍しく」

「作業が終わった書類を、届けに行ってもらっています。彼が戻るまでは食べられません」


 毒見を挟まねばならないのが、ルネとしてはどうにももどかしい。作りたて熱々の方が食も進むはずなのにと、内心で嘆息する。

 湯気を上げる作りたての夜食を、誰も通さず口にしてくれたヴィクトールの姿が、ちらちらとルネの脳裏をよぎる。あのとき確かに、ルネはなにがしかの幸せを感じていた。ふたりは、お互いにかけがえのない何かなのだと思っていた。今となっては、ヴィクトールが本当はどんな人間だったのか、己の認識がだいぶ怪しいとわかってはきた。だが、食事時のあの笑顔だけは本物だったと、せめて信じたくはある。

 だからこそ、食物とエティエンヌの間に何かを挟まねばならない現状が、ますますもどかしい。

 考えに沈んでいると、不意に部屋の扉が開いた。


「殿下、ただいま戻りました。追加のお届け物はございますか」


 黒髪の従者が、いつもの穏やかな笑みで入ってきた。


「いえ、今のところは。代わりに毒見をお願いできますか」

「ああ、ルネ様の御料理ですね。もちろん喜んで!」


 心から楽しげな表情で、ジャックが追加の椅子に座る。肉から小さなひとかけらを切り、口に運べば、元々穏やかな黒い瞳がうっとりと蕩けた。


「本当にこの時ばかりは、己の身分を呪います。毒見役でさえなければ、この料理の全部を味わうこともできるのにと……この皿を一口で止めるのに、どれほどの強い意志が必要か、認識しておられますかルネ様?」


 悪戯っぽい視線が、ルネをにらむ。


「そうかそうか。だったら次はもっと美味いのを作ってやろう。あんたが耐えきれず全部食べちまって、怒った王子様に追いかけ回されるくらいのやつを、な」


 冗談めかして笑いつつ、ルネはエティエンヌの様子を窺った。

 王子の表情は晴れない。二人が精一杯「楽しい食卓」を演出しようとしている中、ひとり取り残されている。当人に響かなければ、この即興茶番に意味などないのに。

 もどかしさばかりを感じる。これまでの生を孤独と絶望の中で過ごしてきた魂は、近づく者を拒む殻をまとっているようにすら感じられる。

 二人だけの談笑がしばらく続いた後、ジャックは促すような視線をエティエンヌに送った。王子の白い手が、皿を自らの目の前に寄せる。


「そろそろ大丈夫ですね。このたびも御料理ありがとうございます」


 食べ始めても、エティエンヌの顔には愁いの色が濃い。フォークとナイフの動きが鈍い。

 ようやくひとかけらを切り取り、黄金色のソースに絡めたものの、口の動きはゆっくりだ。長い咀嚼は、じっくり味わうためではなさそうに見える。


「相変わらずの美味、感謝いたします」


 言う表情が、さっきよりも曇っている。


「柔らかな肉に香り高い脂、こくのあるソース……いずれも花のような甘い香りをまとっていて、蜜も砂糖も入っていないとは、にわかに信じ難いほどです。コカトリスの肉も卵も、高価なのは入手の困難さゆえだけではないと、口にしてみればよくわかります」


 饒舌な賞賛が痛々しい。後に続く言葉が、聞かずともわかるがために。

 ゆえに、ルネは先んじることにした。


「ありがとな。だが別に、食えない言い訳のために褒めてくれなくてもいいんだぜ?」


 エティエンヌが息を呑む。


「言い訳では……ありません。ですが、せっかく作っていただいたものが、喉を通らないのは心苦しく」

「それを言い訳って言うんだよ」


 ルネはあらためて机上の皿を見た。

 かすかに湯気を立てる、黄金色のソースと肉。どれだけ美味に作っても、胃に入らなければ意味はない。のみならず次の作戦にも支障をきたす。この料理が含むのは、次の戦いに必要なマナなのだから。

 それはエティエンヌも十二分に理解しているのだろう。すっかり止まったナイフとフォークに視線を落としつつ、王子は力なくうつむいていた。

 ままならない。ルネの胸中に、ヴィクトールの大食漢ぶりが思い起こされてくる。

 ヴィクトールは戦の前、よく諸将を集めて大宴会をしていた。飲めや歌えの喧騒を見るのが好きだと、いつも言っていた。部下の大騒ぎを眺めながら、ルネと自分だけでこれ見よがしに魔法料理を食べてみせるのも好んでいた。主に示威目的だったとは思うが、あの賑やかな雰囲気は、食を進めるのに一役買っていたに違いない。

 ルネはしばし考え、ひとつの問いを発した。


「なあエティエンヌさんよ。もしかしてだが、あんた憂いがあると物が食えなくなる性質たちか?」


 青い瞳が、わずかに見開かれた。

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