追憶1

王冠と呼ばれた少年

 ――光ってる。

 五十年くらいも前、まだ王子だった「炎竜王」ヴィクトール。初めて見た時の輝きを、ルネは今でさえ鮮烈に覚えている。

 ルネが十四歳の時だった。食い扶持のない者たちに、広く職業訓練を行う――との名目で、ヴィクトール王子は彼ら貧民街の民を集めた。軍の訓練場に付属した食堂で、上座から訓示する王子の姿は、裏路地の闇に慣れたルネの目には輝くばかりに眩しかった。まっすぐで癖のない金髪が、かっちりと着込んだ白の軍服が、ただただ別世界の存在に見えた。

 神様みたいな人だと思った。いや、神様より優しいとさえ感じた。神様は下層の民に満足な食事をくれない。だがこの人は、皆に一食分の食材を与えて調理させてくれるという。

 食べ物を満足に得られない者たちに、調理技術を教えてどうするんだとは少し思った。どうせなら、手に職をつけられる裁縫や木工の方がいいと思った。だが、それは過分な望みと分かってもいた。

 貧民たちは食材を受け取り、料理人たちの指導で基本的な調理技術を教わった。「木の実入り鶏肉スープ」、初めてにしては上手くできたとルネは感じた。滅多に食べられない肉の匂いに、調理の間中腹の虫は鳴き通しだった。できたスープを自ら飲んだ時、口中に染みわたる肉の旨味は例えようもないものだった。

 最後に全員が、心からの感謝をこめて王子と握手をした。それですべては終わるはずだった。

 だが帰ろうとした折、ルネは兵士に呼びつけられた。

 訓練場の更衣室で裸にされた。よくわからない人々が何人も、ルネの腕や背や腹にべたべたと触れた。触れられた己の肌は、なぜか奇妙に硬かった。

 気持ちの悪い時間の後、戻ってきた服は柔らかい綿生地だった。元々着ていた麻の襤褸ぼろではなかった。そして言われた。


「王子に同じスープをお作りしなさい」


 ルネは驚いた。初めて作ったあのスープ、そんなに出来が良かったのか。

 できるなら恩返しがしたいと、ルネは促されるまま厨房に戻った。美味しい鶏肉のスープを、今度は王子に味わってもらいたかった。

 だが、今度の食材には肝心の鶏肉がなかった。渡されたのは木の実と調味料と水だけ。周りの料理人に訊ねても、誰も何も言ってくれない。

 しかたなく木の実だけを煮出して渡すと、王子はなぜか緊張した顔で、一息に飲み干してくれた。

 双方無言のまま、時が流れた。

 不意に王子は何かに気付いたように、数度大きく頷いた。従者と何か話をし、立ち上がり、ルネの方へと歩いてきた。

 王子は、貧民街のいち孤児の前で跪いた。そして、少年のかさつく掌を両手で包み込んだ。大きく、温かい手だった。

 燃えるような力の籠った目が、真正面からルネを見た。ほんの少し、おそろしいと感じた。だが、目を逸らすことができなかった。青く輝く瞳が、心の奥底までも射抜いて捕らえてくるような、そんな錯覚すら覚えた。

 いや、錯覚ではない。きっとあの時自分は、心臓の奥底まで彼に捕らえられたのだ。

 強く握り締めてくる掌は、孤児院の先生たちよりも固く力強く、優しかった。許されるなら、いつまででもこうしていたいと思った。

 王子が、重々しく口を開いた。


「ルネ、といったね。私を、王にしてくれないだろうか……『神の料理人』の力で」


 何を言われているのか、見当もつかなかった。



   ◆



 王子は、様々な未知の知識を教えてくれた。

 世界には、かつて「神の料理人」と呼ばれる存在がいた。彼らはマナと人を繋ぐ存在であり、諸王のためにマナを人が摂れる形に換えていたのだと、はじめは説明された。

 神の料理人、は聞いたことがあった。でも他はさっぱりわからない。素直にそう伝えると、王子はもう少し噛み砕いて説明してくれた。

 曰く。

 マナとは「生命の力」のようなもので、生きとし生けるものは皆マナを持っている。我々は物を食べることで、他の生物からマナを取り込んで命を繋いでいる。

 だが普通の生物――牛や豚や、小麦や青菜や、もちろん人間も――のマナはわずかで質も悪い。いくら取り込んでも、明日の生命を繋ぐ役にしか立たない。

 一方、ドラゴン不死鳥フェニックスのような幻獣、世界樹のような神聖植物は、比較にならないほど良質で大量のマナを持つ。特殊なマナを体内に取り込めば、炎や氷を生み出したり、体を固くしたりするような力さえ得られる。


「しかし、我々が幻獣や神聖植物をただ普通に食べても、特別なマナを取り込むことはできない。人間が石や木の皮を食べても、胃で消化できないのと同じでね。だが、それを可能にする存在が、かつては存在していた」

「それが『神の料理人』ですか?」


 王子は大きく頷いた。


「詳しい原理はわかっていない。だが彼らが調理した幻獣や神聖植物を食べれば、人間も特殊なマナを取り込むことができる。焼かれた小麦粉がパンになるように、彼らは何らかの形でマナを変化させる、と言い伝えられているが……ともあれ古代の王たちは、神の料理人を直に召し抱えた。そして彼らの助力で『魔法』を使い、王の権威の証としてきた」

「でも大昔の話ですよね? 今はいないんですよね?」

「皆がそう思っていた。神の料理人は遠い昔に失われたと。だが私の考えは違った。彼らは滅びてはいない、ただ見つかっていないだけなのだと」


 王子はルネの手を取り、いとおしげに撫でさすった。


「料理人の能力は血統では受け継がれず、予期しないところに予期しない形で稀に現れる。だが幻獣や神聖植物の食材がなければ、彼らはただの人だ。そして力を持つ食材は、大半が希少で入手困難。庶民に能力が現れたとしても、食材に触れる機会がないまま、気付かず一生を終えている可能性が高い」

「もしかして。王子が、俺たちに料理を教えてくれたのって」


 王子は優しく微笑んだ。


「察しがいいね、賢い子だ。今日配った食材には『甲殻樫』の実を少量混ぜていた。過去の文献によれば、体を固くするマナを豊富に含む神聖植物だ。そして君の料理を食べた私は、ほらこのとおり」


 大きな掌が、ルネの掌を強く握る。両者とも、今は革鎧のように固くなっていた。指を動かすにも少し困るほどに。


「ルネ、私は王になるつもりだ。今の王は無能で、放埓な貴族たちをまとめる力もない。日々享楽にふけり、国のあるべき姿など考えてもいない。だから変えることにした」


 王子は、城の方角を鋭くにらみつけた。


「私の王位継承権は下位だ。正統の譲位とはみなされない。だから証が必要なのだ。古代の王が用いた、王権の証がね」


 固くこわばったルネの肩に、大きく温かい手が置かれた。


「私には玉座も王笏も、王太子の位もない。だからルネ……君が、私の王冠になるんだ」


 やはり話が大きすぎて、何を言われているのか、貧民街育ちの少年には見当もつかなかった。

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