2章 反攻嚆矢

噂と地金

 飛竜の襲撃から一夜が明け、ルネは十数年慣れ親しんだ山小屋に別れを告げることとなった。備蓄の食材、香辛料や調味料は兵士たちが運んでくれたが、調理道具やその他の備品は置いて行かねばならなかった。長年の酷使でくたびれ果て、近く買い替えを考えてはいた品々だったが、使い込んだ道具と別れるのはルネにとって気が重かった。

 ともあれ、件の黒岩はしっかりと迂回しつつ、一行は山を下りた。

 昼過ぎ、麓に着いたルネたちを出迎えたのは、驚きとも当惑ともつかないざわめきだった。集落の民は表向き慇懃いんぎんな、実態としては敬して遠ざける態度で一行を迎えた。ルネが、食料雑貨店の親父に挨拶してきたいと申し出ると、兵士の監視付きで許可が出た。


「晴れてふたたび宮仕えの身ですな。おめでとうございます」


 事情を告げると、親父は皮肉めいた目配せと共にそう言った。横に兵士がいる手前、ふたりとも批判的な言葉を直に口にはできない。そこは互いに十分わかっていた。


「ま、いつまでかはわからねえがな。やることはやって、終わり次第帰ってくるつもりだ」

「円満に終われることを願っております。ことに今回は、に恵まれておりますからね」


 良い主、のところで、親父の口調が少しばかり大仰になった。馴染みのルネにしか判らない、絶妙な塩梅で。


「あの王子さん、そんなになのかい」


 ルネも、同程度の加減で返す。


「ご存知なかったのですかな? 大変御方ですよ。父君からの、評判は国中に知らぬ者なく――」


 急に親父の言葉が途切れた。目に怯えの色が表れる。

 隣の兵士が、物凄い形相でこちらを見ていた。親父は数度咳払いをした。


「――失礼。良き主の元で功を上げられることを、私としても願っておりますよ」


 たっぷりの皮肉が籠った口調だった。あの王子、よほど何かがあるらしいとルネは察した。


「ありがとな。それと例の手紙、結局活かせなくてすまなかった」

「気にしておりませんよ。あなたが最良の結果にたどりつけるなら、それが一番ですので」


 哀れみと諦観の口ぶりだった。



   ◆



 巷間での王子エティエンヌ評を、兵士監視下のルネが直に集めるのは難しそうだった。本人配下の兵が聞いているところで、よからぬ噂を素直に喋る人間はいそうにない。

 だがしばらく考えて、ひとりの人物に思い当たった。


「悪い噂、ですか?」

「ちょっとばかり気になる話を聞いちまってな」


 ルネは、従者ジャックが独りの時を見計らい声をかけた。彼なら確実に、王子にまつわる様々な情報を持っているだろう。


「どのお話ですか?」


 眉一つ動かさず、ジャックが答える。

 ルネは内心で冷汗を流した。確かに情報は持っていそうだ、聞き出しきれるか怪しいくらいに。そんなに悪評だらけなのか。


「特定のどれ、ってわけじゃねえが。ついていく以上、従う相手の良いところも悪いところも把握しときたくてな。そうだな、たとえば――」


 軽口めかして時間を稼ぎつつ、ルネは親父の言葉を思い出した。皮肉が特にきつかったのは「良い主」「人柄の良い」「父君からの覚えもめでたく」あたりか。


「ジャックさんよ。あんたから見て、エティエンヌの器はどんなもんだ?」


 あの王子は良い主なのか、世間の評判はどうなのか、確かめたいだけだった。

 だが、場の空気は一瞬で凍りついた。


「殿下は立派な御方です。決して、民が噂するような人物ではございません」


 口調だけは穏やかな、ジャックの答え。だが、大きな黒い目に隠しきれない威圧感が宿っている。とんだ藪蛇だったようだ。


「すまねえ。あいつの資質を疑ってるわけじゃないんだが、懸念は潰しておきたくてな……ま、人の上に立つ者にとって、いちばん大事なのは人柄だ。人柄さえ良けりゃ、あとは大した問題じゃねえよ」


 話の流れを立て直したつもりだった。

 だが緊張の圧はさらに強くなった。ジャックが、大きな目を細めてにらみつけてきた。


「確かに人柄は大事ですね。ですがルネ様、できれば、そのお言葉は殿下の前ではお控えいただけますか。気になさっておいでですので」


 親父の皮肉に「人柄」も入っていたと、ルネは思い出した。

 これは、思ったよりも駄目かもしれない。器もなく人柄も良くないとは、統治者の資質として完璧すぎはしないか。逆の意味で。

 そもそもエティエンヌは既にいい大人だ。人柄が悪いと自覚があるなら、己で直せばいいだけのこと。自らを正すことなく、他人の評判だけを気にしている時点で推して知るべし。


「何か考えておいでですか、ルネ様?」


 ジャックへの返事に困る。何をどう話しても、触れてはならないところに触れてしまう気がする。

 しばし考え、どうにかルネは無難そうな問いを捻り出した。


「なあ。あんたから見て、あの王子様の良い所ってどこだ?」

「殿下に良い所がないと、そうおっしゃりたいのですか?」


 なぜそう曲解するのか。それとも、曲解されるだけの何かがエティエンヌにはあるのか。

 釈明しようとした時、背後から声がした。


「ルネ様、こちらにいらっしゃいましたか。探しましたよ」


 話題の主、エティエンヌだった。ジャックが深く頭を下げた。

 王子の眉間には皺がより、張り詰めた表情には神経質な雰囲気が漂っている。切れ長の目は鋭く細められているが、視線に力強さはない。むしろ疲れた感じさえ受ける。人の上に立つ人間なら、空元気でももっと悠然としてみせろと、ルネは内心で舌打ちした。


「なにか俺に用か、王子様」

「最初の『魔法料理』を用意していただきたく。我が主力部隊は近隣の街に駐屯しておりますので、必要な食材はそこで手配させます」


 言葉だけは丁寧だ。だが口調に、有無を言わさぬ圧がある。


「魔法料理といっても色々あるが。何がやりたい」

「炎を。それもできるだけ派手なものを」


 胸の奥がずきりと痛む。炎か。昔さんざん作り続けた魔法料理だ。

 前王、すなわちルネの元の主ヴィクトールは、多くの局面で炎を使った派手な演出を好んだ。それゆえに「炎竜王」の二つ名も付いた。


「炎といっても色々あるぞ。高温を長時間持続させるものも、瞬間火力が強いものも、青い炎も赤い炎もある。使う食材次第で全部違ってくるが」

「父と同じものでお願いします」


 胸の痛みが増す。

 こいつがやりたいのは、父親と同じこと、なのか。


「ヴィクトールが好んだのは火蜥蜴サラマンダー由来の炎だな。あれは鮮やかな赤い炎が長時間持続する。で、あんたは、その炎で何をしたい」

「父と同じことを」


 やはりか。痛みが少しずつ怒りに変わる。

 あんた、あの炎でヴィクトールが何をやったか、わかってて言ってんのか。

 もしやとは思うが、魔法の炎さえあれば、誰もがおまえに従うと思ってやしないか。己の人望のなさを、魔法頼りで覆そうとか考えてやしないか。

 ヴィクトールは、少なくともそこはわきまえていた。魔法はあくまで道具、目的をもって使いこなすもの。無計画に垂れ流すものじゃない。


「同じこととだけ言われてもな……何十年もの治世の間、いろんなことやってたからな、あいつ。もうちょっと具体的に頼むわ」


 少し考え、エティエンヌは言った。


「誰もが畏怖する力を。見た者が恐れ、ひとりでに膝を折るような……私を、炎竜王の後継者と認めざるを得ないような」


 危惧が的中した。


「言っとくがなエティエンヌさんよ。あいつは――ヴィクトールは、魔法の力だけで何十年も王様やってたわけじゃねえぞ。判断力も実行力も申し分なく、王としての器を十分に備えていたからこそ、長く人の上に立っていられた」

「ルネ様!」


 ジャックの鋭い声。だが知ったことか。いつかは言わねばならないことだ。


「魔法さえあれば王になれるとか、ぬるいこと考えてんなら今のうちに改めろ。そんな了見で魔法を扱っても、ろくなことにならねえ」


 エティエンヌの痩せ気味の頬が、みるみる朱に染まっていく。

 にらんでくる青い瞳に、強烈な怒りを感じる。拳がわなないている。

 人間、怒った時は素が出る。なりゆきとはいえ、これで地金は見えるはずだ。


「あなたに意見は求めていません」


 ようやく発された声は、震えていた。

 腰の剣が抜かれた。突き付けられた切っ先も、小刻みに揺れている。


「父と同じ魔法料理を、作ってください……いえ、作りなさい。あなたの役割はそれだけです。すべて、かつてと同じようにすればいいのです」


 ああ、それがおまえの真意か。心胆がすうっと冷えていくのをルネは感じた。

 求めるものが「かつてと同じ」だとすれば、待っているのはかつてと同じ地獄でしかない。いや、おそらくはもっと悪い。父ヴィクトールには、少なくとも統治者としての資質と能力があった。目の前で怒りに震えるエティエンヌに、王の器はひとかけらも感じ取ることができない。


「わかったよ。作りゃあいいんだろ。作りゃ」


 投げ遣りに返せば、エティエンヌは剣を収めて去っていった。

 肉のない背中を見ていると、否応なしに父親のことが思い起こされる。十数年の間封じてきた記憶が、吹きこぼれるスープのようにルネの胸中で噴き出しはじめた。

 炎に焼かれる人々の姿。市中に満ちる怨嗟の声。拭いきれぬ後悔。

 逃げろ、一刻も早く。留まれば、おまえはかつてと同じ道をたどるぞ。あるいは、もっと悪い結果かもしれない――胸の奥で叫ぶ何者かの声を、ルネは確かに聞いた。

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