霊山、今日も晴天なり
食料雑貨店の机の上、麻布に盛られた香辛料は、昨秋の半分足らずの量だった。横に並ぶ塩も、
事情は知っている。だがこれはない。便乗で値を上げてきたとしか思えない。
「量を間違えてねえか、おっちゃん」
睨んでやれば、店の親父は肩をすくめた。
「このところの
親父は、机上の大きな麻袋に目を遣った。昨日掘ってきたばかりの、今季初めての
「贅沢品の需要も減っております。良品なのは承知しておりますが、貴族の方々は皆、戦費の調達に苦心しております。芋に大枚をはたく方々は少ないのですよ」
予想していた答えだが、あらためて聞くと力が抜ける。遠方の戦が、こんな辺境にまで影を落とすとは。
「だからって、さすがに減らしすぎだぞ」
「あなたの存在を明るみに出しても良いのですよ?」
一瞬言葉に詰まる。それを出されると何も言えない。だが親父も、この取引で利益を得てるはずだ。お互い様じゃないのか。
ならばこちらにも相応の態度がある。
「ああ、そうかい。じゃあ」
麻袋を開け、芋を三つばかり取り出す。土がついていてさえ、白銀に輝く肌が眩しい最上級品だ。掌に乗せると、本物の銀塊のようにずしりと重い。
「一番いいやつは持って帰るわ。買い叩かれるくらいなら自分で食う」
親父は止めてこなかった。無言で、香辛料と塩を四分の一ほど引っ込めた。
机上の各種香草と香辛料。塩。油。酢。どれも予定より大幅に少ない。だがこれ以上の交渉の余地も、おそらくない。投げ遣りに承諾を伝えれば、親父は銀華芋を手早く棚の奥へ隠し、引き換えの品を麻布で包み始めた。帰りの荷は軽くてすみそうだ、まったく嬉しくはないが。
「道中、お気をつけて」
親父の言葉には、ほんの少し翳りがあった。
◆
食料雑貨店の裏口を出れば、目の前は雪を頂いた天衝く山だ。霊山エスカルデは、やはり美しい。
空は深い青色に澄み通り、山頂にかかる傘雲以外に白いものは浮かんでいない。緩やかに広がる稜線を眺めていると、物の値上がり程度で苛立っていた己の性根が、あまりにちっぽけに思えてくる。
美しい山。豊かな森。澄んだ川。各々から穫れる天地の恵み。人間にとって、他に何が必要だというのか。
荷入りの袋を背負い、自分の頬を叩いて気合を入れる。帰るべき家は山の中腹だ。いちばん山に近いこの集落からでも、獣道伝いで半日かかる。日が落ちる前に戻るなら、すぐ発たねばならない。
きらめく木漏れ日の下、凹凸だらけの獣道を抜けていくと、川のほとりに出た。一年を通じて変わらない、透明な雪解け水の流れを見ていると、ふと喉の渇きに気付いた。荷を下ろし、流れの穏やかな所へ屈み込むと、水鏡に若い男――自分の姿が映った。
日に焼けた肌に締まった頬、茶色の目に癖の強い赤毛。筋肉質の身体を覆う、簡素な無地の麻服。我ながら完全無欠の若人だ。
気付けば、手が頭に伸びていた。乱れた髪に手櫛を通そうとしていたようだ。山の中、誰も見はしないのに。昔の癖が抜けない。
両手で水を掬うと、水面の像は揺れて砕けた。
川沿いに上っていくと、背丈の倍ほどもある黒岩が現れた。家路で最大の難所だ。正面からだと死角で見えないが、近くに
霊山は至る所、この種の危険に満ちている。だからこそ自分は、ここで平穏に生きられる。
住処に戻った頃、陽は西に傾いていた。歩き通しで腹も空いた、暗くなる前に夕食を作りたい。
家は簡素な山小屋だ。大昔に誰かが建てたらしき、朽ちかけの小屋を修理して使っている。寝床と
机の上に荷を広げる。新鮮なオリーブ油、新しい調味料に香辛料、持って帰った銀華芋。途中経過が若干不本意ではあったが、今日は御馳走だ。
腹の虫が、ひとつ鳴った。
◆
じゃがいものポタージュなら、普通は玉葱・牛乳と合わせる。だが銀華芋には必要ない。白銀色の皮に、玉葱よりも上質の旨味と鋭い香気が含まれているからだ。
川で洗った芋を手早く剥くと、銀色の皮の下から純白の芋が現れる。こちらも、牛乳がいらないくらいの甘味とこくを含む。一山に金貨一枚の値がつく理由だ。
新しいオリーブ油を鍋に引き、まずは皮から炒めてやると、つんとくる香気がさっそく漂った。玉葱と似た系統だが、より深くて後を引く匂いだ。
皮が透き通ったところで芋を合わせ、霊山の雪解け水で煮れば、鍋蓋の隙間から漂う甘い香りが時間を追って濃くなっていく。中身を潰すために蓋を開けると、澱粉質の濃密な芳香があばら家を満たした。腹の虫がひどく鳴る。
ようやく、鍋の端に細かな泡が現れはじめた。火から下ろし、椀に注いで少量のオリーブ油と黒胡椒を散らしてやる。胡椒の刺激は、芋の甘味をより引き立てる。
さあ、じっくり味わってやるぜ――
椀を置くため、机の荷物を寄せる。すると小さな紙片が一枚落ちた。親父が荷物に紛れ込ませたのだろうか。
拾ってみた。
『逃げろ。探られてる』
どういうことだ――考えたと同時に、小屋の戸を叩く音が響いた。
「失礼する。小屋の主人はいるか」
いねえよ、と答えられればどれだけ楽か。
息を潜める以外なにもできずにいると、ノックの音はますます強くなった。
「主人がいないなら、代理の者でよい。返事をしろ」
そろそろボロ戸に穴が開くんじゃないか――思った瞬間、激しいノックは止んだ。
居丈高な声が、扉の外から響く。
「返事をせぬなら、入らせてもらうぞ。フレリエールの王権において」
フレリエール、この地を統べる王国の名だ。
きしりながら扉が開いた。革鎧の兵士数人が、夕陽を背に立っている。服の端に、フレリエールの紋章が確かに見えた。
中央に背の高い男がいた。一本にまとめた癖のない金髪が、逆光に輝いている。肉のない痩せ気味の体躯が、周りの屈強な兵士たちと奇妙に不釣り合いだ。
光がわずかに翳った。垣間見えた目鼻立ちは整っていた。だが、苛立ち混じりの疲れた表情で台無しだ。山道疲れなのかもしれない。
男が声を発した。
「人を探している。ルネ・ブランシャールという老人だ」
血が凍る。
呪わしい名。一番、聞きたくない名だ。
なぜ、いまさらその名を持ち出す。そいつは十年以上前に死んだはずだ。
言葉を返せずにいると、兵士が二人踏み込んできた。
「生きていれば七十歳近いはずだ。お前、何か知らないか」
俺の両脇に兵士が立つ。手中に、枷を持っているのが見えた。
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