二〇二二*十一二一
才川夏未が南原華に再会して二週間経った。
十月は落ち着いていた新型コロナウイルスの感染者数が、十一月にまた増えて、東京で一日一万人、全国で十万人を超えるようになった。テレビのニュース番組で、専門家は「予断を許さない状況」と語り、「年末に向けて、第八波の感染ピークが訪れる」と見通した。
感染が拡がれば、出版の仕事もオンラインが主流になっていく。取材活動はなおさらのこと。モニター越しの対面を嫌う夏未は、仕事の先行きを不安に思った。相手の立ち居振る舞いや表情の細(こま)やかな変化、その人ならではの空気感がインタビューを左右するからだ。
もし、十月が現在(いま)の状況だったら、源田の「子ども広場」を訪れることも、華に会うこともなかったかもしれない――そんなことを想いながら、夏未はブレンドコーヒーをオーダーして、借りてきた本をテーブルに置く。二週間前と同じ店の、同じ席。ただ、今日は独りきりだ。
結局、夏未は華から封筒を受け取らなかった。紙に記された本の半分は夏未が制作に携わり、夏未自身がSNSで発信していたものだったが、残りの半分はまったく知らない本で、すべての書名に、「フラワー」「花」という文字があった。
意を決した華を前に、夏未は態度に表れるほどの居心地の悪さを感じた。本のリストを受け取れば、華の罪悪感は高まるだろう。「もう、父ではない」人との距離もいまさら変えたくない。だから、紙を手にしてみたものの、バッグにしまうことなく、礼も言わずに華に返した。
それから、強張(こわば)った関係の中で、夏未は冷静に考えた。
南原華に橘丈一との個人的な付き合いがなかったら、絶対にやってはいけないことだ。でも、華と父がプライベートで会い、そのときの会話から本のリストをまとめたのなら、図書館は利用者の秘密を守ったままにちがいない――そんな解釈を夏未が言葉にして伝えると、華は深々と頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
店主がマスク越しに言い、夏未の前にコーヒーカップを置くと、別の一人客に水をサーブして、二週間前と同じ歩容でカウンターに戻った。
あの日、店を出て、「才川さん、元気でいてください」と、華は消え入る声で背中を向けた。次の約束もせず、過去も未来も切り離して、フリーザーで時間を凍らせるような別れ方だった。大人気(おとなげ)ない対応だったと、夏未は自宅に戻ってから思った。華の前で感情を昂らせて、本のリストを持ち帰るべきだったか。しかし、人生のドラマチックな展開を望むわけではなく、センチメンタルに気持ちを揺らす年齢(とし)でもなく、事実の積み重ねに向き合うしかなかった。
家族の元を去った父。父に届かなかった想い。やがて、心身が安定し、家族に目を向けた父を、今度は自分が受け容れなかったこと。
コーヒーの湯気が薄くゆらめく。
橘先生がいなくなった毎日を信じたくないと、華は言った。傾聴ボランティアの団体に一緒に入る約束を残したままだ、と。
「才川さん、元気でいてください」
「私はずっと元気でいます」――せめて、言葉でそう伝えようと、華と別れて一週間が過ぎた日に、夏未は電話をかけた。つながらず、時間を置いて、もう一度。留守番メッセージに切り替わることなく、呼び出し音が続いた。しかたなく、華のSNSに「時間があるときにお電話ください」と残したが、読まれた跡もなく、音信は途絶えたままだった。
夏未は、ブックフィルムがかかった本の表紙に掌を乗せる。
区役所本庁舎ビルにある、千代田図書館の棚番号十四――「花道(かどう)」という差込表示板の横に、背の高さを違(たが)えた書籍が並んでいた。
リストの本を借りてきたことを伝えようと、夏未は携帯電話の発信履歴から、また「南原華」を選んだ。今日はつながるかもしれない。
呼び出し音の連続。五回、十回……
店内に響いた鈴の音に振り返る。
墨色のハーフコートを着た男が、待ち合わせのテーブルに腰かけて、マスクを外した。そして、夏未にもわかるほどのため息をついた。
「どうだった?」と、先客が切り出す。
「……嫁さんがひどく泣いてたな」
「俺も行って、顔を見てやりたかったけど、会社に止められたよ」
「コロナだからしかたない……身内だけの葬式だったし」
ふたつに折ったコートを背もたれにかけて、男は喪服の袖口に付いた糸くずを払い、店主の目を気にするそぶりで、礼装のネクタイを外した。
「休職がSOSのサインだったのかもな」
先客の声は力のないものだが、夏未の耳にはっきり届く。
「そうだな。あれだけ好きだった仕事をストップしたんだから、心が限界だったんだろう」
「仲のいい嫁さんがいてもダメだったか。きっと、コロナの影響だな……」
夏未の心臓がどくんと打つ。携帯電話を見つめる。二度と起動しないかのように、画面が光を閉ざしている。
店主が飲み物を運ぶ間だけ、男たちは会話を止めた。
源田の「子ども広場」は年を越せるだろうか。読み聞かせの学生もいなくなり、子どもたちの居場所が失われていく――華のことを考えないようにして、夏未は、坂井と五十(ごとう)稲荷神社で手を合わせた日を思い起こして、本のページをめくった。
パンジーとガラスカップ、ラナンキュラスと竹かご、ダリアとアイアンバスケット、クリスマスローズとブリキのピッチャー……さまざまな花と器(うつわ)が、それぞれの出合いの中で、お互いの役割を果たしている。
グラスの水を飲み干して、夏未は、もう一度、華にコールした。
「教えてくれた本を図書館で借りました。私は元気でいます」――準備された言葉を疎んじて、ひとつの呼び出し音が、次の呼び出し音に時間を継いでいく。
支払いを済ませて店を出ると、師走に近づく季節が宵闇を連れていた。駅に急ぐ人と方向を揃えて、夏未は家路につく。今日も、明日も、原稿を書かなければならない。
救急車のサイレンが音を増し、三車線道路の真ん中を赤色灯がスピードを上げていった。
そのとき、デニムパンツのポケットで携帯電話が震えた。
足を止める。肩にかけたトートバッグが擦れ違う男に触れそうになって、直立のバランスを崩しながら、夏未は画面を見る。
「あっ」
思わず漏れた声に二トントラックの強いアクセルが重なり、高架線を走る各駅停車が夏未を脅かした。
「もしもし!」
聴こえない。各駅停車を追いかける快速電車の走行で、JRのガード下は会話ができない状態になる。見知らぬ人が前後を行き交うなか、夏未は携帯電話を耳にあてて、十メートル先の人気(ひとけ)の少ない陸橋を目指した。千代田区と新宿区と文京区を八つの脚で跨ぐ、大きな横断歩道橋だ。幾年月の雨風に耐えながら、何度も塗り重ねられた青色のペイントはところどころが変色し、木皮のように剥離しているが、歩行者をしっかり導いている。
夏未は、四十五段の階段を駆け上がった。途中で足がもつれ、視界が激しく傾(かし)いだ。
「も! も、もしもし! もし……もし、もしぃ!」
電波状況が悪いのか、水の中で何かが蠢くような、言語にならない音が途切れ途切れに聴こえるだけ。背後の様子に驚いた感じで、前方の学生が振り返る。
「もしもしぃ! もしもしぃ!」
息を切らしながら、声を張り上げ、胸から飛び出しそうな心臓を、夏未はジャンパーの上から強く抑えた。
「なん…らです」
「あぁ、南原さん……あ……」
発声が思うようにならない。マスクを顎まで下げて、息を強く吸い込むと、突然の冷気に驚いた肺が呼吸を拒絶するように夏未を咳き込ませた。
「さい…わさん、で…よね?」
「はい、聴こえます。聴こえてます……大丈夫! こっちは大丈夫!」
とめどない咳が鼻腔を湿らせ、痛覚が前のめりになった夏未を遮る。
「才川さん」
華の声に、夏未は、鉄錆のある手すりに身体(からだ)を寄せた。街に連なる建物と歩道橋の灯が辺りの暗さを一掃し、夜の訪れをひそやかにしている。
「才川さん、お電話をいただいていたのに……すみません」
「いえ、何度もごめんなさい。南原さん、私は……」
言いかけた途端、積み重なった事実が予告もなしに夏未の中をよぎり、伝えてみたかった言葉が列をなしていく。
『フリーランスでがんばってみるよ』『本がたくさん売れたんだ』『私はずっと元気でいます』
通話が切れた感じで、華の声が消え、コロナを連れた時間が何もかも奪い去ろうとする。
水の中で、また、何かが不自然に蠢いた。
「南原さん! 聴こえますか?」
「あっ、いま聴こえてます」
「南原さん……そうだ……子どもたちに、おはなし会を……読み聞かせをしてください」
(おわり)
短篇小説「ルール違反」 トオルKOTAK @KOTAK
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