二〇二二*十一〇七 その2

「はい」

「図書館での担当変更は、南原さんのご希望だったんですか?」

仕事で使いがちな「本意」という言葉が出かかったが、夏未は「希望」という言葉にすり替えた。

「違います。わたしは、『おはなし会』とか、子ども相手のイベントが好きだったし……児童書の広場で、未就学のちっちゃい子や小学生に会うのがすごく楽しかったんです」

「そう言えば、どんな図書館も、児童コーナーでイベントをやっていますね」

「ええ。特にわたしのいた図書館は、お子さんと、お父さんお母さんの利用がかなり多かったんです」

当たり障りのない相槌を打って、夏未は九月と同じように、華の左の薬指を見た。仕事の「蜘蛛の糸」にしがみついた就職氷河期世代は未婚者が多い――そんなデータを夏未は見たことがある。

「……つまり、担当替えは、南原さんにはうれしくなかった、と」

「でも、一般貸出のカウンターにいることになったので、橘さんをその後もお見かけできるようになりました。だから、結果的には良かったのかもしれません」

「父は、南原さんの図書館の利用者で、偶然、生涯学習センターで一緒になって、声をかけたということですね?」

疎遠な親子関係を知っているのか? 「もう、父ではない」ことまで理解しているのか?――夏未はストレートに尋ねたかったが、華の打ち明けを捻じ曲げないため、あえて、「父」と言った。

「そうです。たまたま、席が隣りになったので、思い切ってご挨拶しました。橘先生は、わたしにとって忘れられない人ですから」

予期せずに、「橘先生」という呼び方に出くわして、夏未は唾を呑んだ。

店の扉の鈴が来客を告げる。

緑色の制服を着た宅配業者が、抱えてきた段ボールの箱をカウンターに置いて、伝票にサインを求める。配達時刻がきっかり決められていたようなスムーズな動きだ。夏未と目の合った店主が、会話を止(と)めてしまったことを詫びる感じで会釈して、定位置に戻っていく。

「……忘れられない人、ですか?」

「はい……友達がいなかった、というか、クラスのみんなとうまくやれなかったわたしに、先生は自信をつけてくれました。学校の行事とか宿題で、わたしが書いたり、提出した文章をいつも褒めてくれたんです」

「担任だったんですね」

「中一のときです。ホームルームでは、太宰とか三島とか……昭和の作家の言葉を紹介してくれました。わたしが司書の道を選んだのは、橘先生の影響が大きいです」

うつむき加減に、華はグラスの縁を右の人差し指でなぞった。夏未のグラスは口紅をうっすら宿しているが、華のグラスはおろしたてのように汚れがない。店内の照明が落とす光は、グラスに付いた指紋を映し出す角度ではなく、強くも弱くもない。

「生涯学習センターは、何の講座だったんですか?」

急ハンドルを切る思いで、夏未は話題を変えた。中学校の話は避けたかった。

それは、橘夏未が十七歳、橘丈一が五十三歳の夏だった。バレーボール部の顧問だった「橘先生」の行き過ぎた指導に、保護者たちが感情を露わにした。まだ、インターネットもSNSもない時代。当時の学園ドラマや新聞の三面記事が影響したのか、束ねたマッチの火が燎原の火になった。正義をふりかざすことが大人の権威であり、親の権利だと言わんばかりに、子どもの親は学校の姿勢を糾弾し、一個人を責め立てた。しかし、その正義に確固たる根拠はなく、体罰の程度はレギュラー落ちした生徒の主観だった。それでも、学校は体面を保つために、担当教師を守ることはしなかった。

結果、「公立学校異動名簿」に記されたのは、一人の国語教師が教壇を去ったこと。橘家に起きたのは、夫であり、父親である、一家の大黒柱が折れたこと。仕事を失った橘丈一は蝕まれ、折しも、肉親の要介護度が上がったことで、東京から逃げるように兵庫の実家に戻った。そして、打ち寄せる波にさらわれた心は、家族の岸辺に戻ることはなかった。

「『傾聴』の講座です」

華の毅然とした声に、夏未は我に返る。

「ケイチョウ?」

「……はい。相手のお話を聴く方法を学ぶものでした」

「そうでしたか……南原さんはご存じとは思いますが、私は、父と離れて長く……お葬式で、久しぶりに顔を見た程度の関係でした。だから、高齢になった父の考えとか行動を全然知らないし、思い出もありません」

「……わたしは……わたしは橘先生がお亡くなりになったことを、ずっと知りませんでした」

華の声がにわかに上擦り、夏未は、顎を引いてうつむいた。橘丈一も、母も、人目を避けるような葬儀だった。未知のウイルスが人と人の接点を減らし、コミュニケーションを分断した。

「わたしの話で……わたしと会うことで、才川さんが嫌な思いをされているなら、本当に申し訳ないです」

「嫌な思い……」

相手が聞き取れないくらいあいまいに、自分に問う感じで夏未は言葉を反芻した。

段ボールの粘着テープを剥がす音が空間を支配する。

顔を上げて、夏未は華の瞳を見つめた。黒目の上の方は瞼に隠れているが、婉曲した部分は白目との境界をくっきりさせている。瞳孔には強い芯があった。

カップの取っ手を右の三本の指で持った華は、左の掌で容器全体を包み込むようにして、口元に寄せた。茶道の作法みたいに時間をかけて。関節と血管が目立つ手は、季節以上に乾いていて、年齢以上に複雑な皺をつくっている。夏未には、仕事を辞めた華がタイムトラベルして、齢(よわい)を一気に重ねたふうに見えた。

「……お忙しいのに、才川さんのお時間をいただいてしまい、申し訳ありません」

ハンカチで口元を拭いた華は、サングラスをバッグにしまうのと引き換えに、白い長形(なががた)封筒を手にした。そして、夏未の反応を待たずに、封筒から一枚の紙を出した。便箋ではなく、B5サイズの普通紙だ。谷折りになっていた部分を一度山折りにして、紙を元の状態にできるだけ戻してから、それを自分の手元に置いた。文字が小さく印字されている。

「ルール違反ですが……」

そう言って、まばたきのスローモーションみたいに、華は瞼を閉じて、開けた。

「……わたしが、これを才川さんにお見せするのは、ルール違反です」

続きを発することができずに息をついた華の前で、夏未は、グラスに触れていた手を腿の上に移した。

「わたしが記憶している、橘先生がお借りになった本です」

「……本?」

「図書館の本のリストです」

「図書館の、ですか?」

「はい。全部ではありませんが……先生の趣味とは思えない本を思い出して、書名をまとめました」

みぞおちを圧され、異物が身体(からだ)に潜り込んできた感覚で、夏未の心臓が早鐘を打つ。耳たぶが熱くなり、気持ちを鎮めようとマスクを着けて、視線を紙に向けた。


「なっちゃん、図書館はね、誰かが本を読んだ事実や読書の傾向を絶対に外にはもらさない。それくらい、本は個人のプライバシーにつながるもので、その人の生き方を左右していくんだ。だから、僕らは文章に正しく向き合って、良い本を創らなければいけないね」

正月明けの仕事始めの日、事務所のメンバーで神田明神に行った帰りに、坂井は社会人一年目の夏未にそう言った。本殿の東側に建つ、親子の獅子像の姿とともに、夏未はそのときのことをはっきり憶えている。関東大震災で子獅子が行方不明になって、八年前に新しい子が作られたばかりだと、坂井は蓄えた知識を披露した。幼い我が子を亡くした坂井自身の過去を、夏未が先輩社員から聞いたのは、そのしばらくあとだ。

当時二十三歳だった夏未は、坂井の言葉をきっかけに、「図書館の自由に関する宣言」を初めて知った。日本図書館協会が二十年ほど前に改訂したものだった。宣言には、「図書館は利用者の秘密を守る」とあり、「利用者の読書事実、利用事実は、図書館が業務上知り得た秘密であって、図書館活動に従事するすべての人びとは、この秘密を守らなければならない」と謳われていた。


「……趣味とは思えない本ですか?」

何かを言わなければと、夏未は考えを深めずに言葉を戻した。

「はい。橘先生は、お花の本を……フラワーアレンジメントの本をたくさんお借りしていました。それと、大学生の就活や経営者向けのビジネス書を」

華は、紙の向きを変えて、夏未が文字を読めるようにした。横書きで、一行に一冊ずつの書名が並び、下半分は、次の印字を待つようにブランクになっていた。

「橘先生とわたしは図書館の中では目礼する程度で、何もお話ししませんでした。でも、数ヵ月に一度くらい、外で会って、先生から教えをいただきました」

「『教え』って……国語の勉強とかではないですよね。父は、とっくに教師を辞めてますし」

「ええ。わたしの調子が良くなくて……いろんなことに過敏になったり、特に、コロナで人と話すのが億劫になって……先生はこんなわたしに寄り添ってくれて、心にどう向き合えばいいかを教えてくれました」

華は身体(からだ)を動かさずに、レコーダーに吹き込むみたいに丁寧に語った。テーブルの上には、コーヒーカップとティーカップとふたつの水のグラスと一枚の紙が静止画になって留まっている。

「先生は、中学の頃のように、わたしを見て、話を聴いてくれて、図書館でのわたしの仕事を褒めてくれました。うれしかった。それなのに……まだコロナは続いているのに……いつの間にか、先生と別れてしまい……」

夏未は、華の白目と黒目の境がぼやけていく様を直視できずに、視線をガラス窓に向けた。フェイスシールドをつけた高齢者が娘に手を引かれ、路上駐車のファミリーカーに乗り込んでいく。ハザードランプの点滅がまもなくの発進を知らせている。

「……せめて、先生のお話を振り返りながら、先生がどういう本を借りていたかを思い出していきました。これをまとめたのは、わたしが図書館を辞めてからです」

声のトーンを強めて、華が告げた。まるで、暗記してきたセリフを読み上げるように、言葉に詰まることなく、はっきりと。

それから、自分を罰する感じで、目力を強め、口を真一文字に結んだ。左の涙堂が一滴(ひとしずく)分だけ濡(そぼ)った。

(つづく)

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