二〇二二*十一〇七 その1
ブラインドカーテンに手をかけた夏未を制すると、華はバッグからサングラスを取り出し、感情の乏しい瞳を薄紫のレンズでぼかした。
十一月最初の月曜日。地下鉄・九段下駅と飯田橋駅の間にある喫茶店で、才川夏未は南原華に向き合っている。約束の時間よりも早くに、華は、九段下の交差点に面した北の丸スクエアのエントランスで夏未を待っていた。初対面だった九月は、ビル一階のスターバックスコーヒーに入ったが、今日は、ビジネスパーソンの喧騒から離れた個人経営の喫茶店を華が選んだ。
待ち合わせの前に、夏未はフリーペーパーを源田に届けた。取材から一ヵ月でかたちになったものを、発行元が送るよりも先に自分の手で見せたかったのだ。何よりも、源田の体調が気になっていたが、夏未の心配をよそに、源田は掲載ページを喜びながら、「子ども広場」を「大人たちにも開放したい」と言った。コロナ禍でストレスを溜め、生きづらさを抱えた人たちに料理を振る舞いたい、と。
「仕事を辞めたんです」
華の突然の告白に、夏未が視線を強める。
「……司書のお仕事を? 南原さんは、たしか、図書館で働いていらっしゃったんですよね」
「はい……そうでした」
「辞められたのは、最近ですか?」
問いかけの言葉を選んで、夏未は慎重に発した。
「辞めて、二週間ほどです」
「二週間ですか……」
「ええ。ですから、いまは無職です」
職業柄、夏未は誰かに何かを尋ね、話を聞くことに慣れているが、仕事や私生活の話題は、相手のペースに合わせ、時間をかけて知ることを心がけている。フリーランスになりたての頃は、気持ちが先走り、矢継ぎ早の質問で答えを強いることもあった。原稿のまとめ方を優先して、対話のキャッチボールがうまくできずに。しかし、南原華は仕事の相手ではない。友達感覚のやりとりでも構わないはずだが、テーブルを支配する空気に口を閉ざした。
とりあえず、耳を傾けよう――気持ちをリラックスさせて、夏未はマスクを外し、量を減らしたグラスの水で舌先を湿らせた。
晩秋の太陽が厚い雲に再び隠れ、華のサングラスが色を暗くする。
「……ちょうど辞め時だったと思います。十八年も続けたので」
「十八年……南原さんが図書館で働き始めたのは学校を卒業されて、少し経ってからですか?」
「そうです。正規雇用の仕事になかなか就けなくて、しばらくは派遣で食べてました」
夏未は、自分がフリーランスのライターになってからと同じ年月を華が図書館の仕事に費やしてきたことを知り、背筋を伸ばした。九月の対話で、三学年という年齢差がわかり、「もし、妹がいればこんな感じかな」と思った。そして今日、自分と同じ、就職活動での苦労を理解したのだった。就職氷河期世代――一生ついて回る、そのレッテルを夏未は嫌ったが、氷河期でなければ、物書きを生業(なりわい)にすることはなく、卒業一ヵ月前に、坂井文也の会社に拾われたことが人生の岐路だった。そんな自分の境遇を振り返り、「辞め時だった」という華の言葉が夏未の胸に響いた。十八年の間、華は氷の冷たさを感じていたにちがいない。
沈黙が長引く。
華は黙ったまま、セーターに重なるシャツの襟を両手で整えた。
無人の店内は物音を立てず、奥まった場所にいる店主は、座面の高いスツールに腰かけて、タンブラーを磨いている。夏未と華のテーブルは外界から切り離され、大きなラップフィルムに覆われているようだった。
「……図書館でのお仕事はたいへんですよね。図書館で働く人を接客業と勘違いして、あり得ないクレームを入れる利用者も多いと聞きます。カスハラみたいに」
適当な返しが見つからないまま、場をつなぐ思いで夏未が切り出すと、華は口元を緩めた。
「才川さんは、図書館をよく利用されるんですか?」
「はい。調べものの多い仕事なので……私は、千代田区と、自宅のある豊島区のカードを持っています」
「千代田区?」
首を傾(かし)げた華に、夏未は、新卒時代の勤務地が神保町だったことを伝え、昨今は、千代田区の図書館のうち、日比谷公園の一角にある日比谷図書文化館に足繁(あししげ)く通っていると話した。
サングラスの華の瞳が温かみを帯びる。
「千代田区の図書館カードは『貸出券』って書いてありますよね。その、『貸出券』という言い方が、わたし、好きなんです」
「貸出券?」
柔らかな面持ちで紅茶を口に含む華を見て、夏未は長財布から図書館カードを抜き出した。たしかに、左上に「貸出券」とあり、「かしだしけん」という平仮名が漢字の上に書かれている。豊島区の方は「図書館利用カード」と記されていた。いままで、気にしたことがなかった。
「千代田区には、日比谷図書文化館や、この近くの千代田図書館みたいに東京を代表する立派な図書館と、神田まちかど図書館、昌平まちかど図書館っていう、地元に密着した小さな図書館がありますね」
まるで研究家のように、華が続けた。
神田まちかど図書館には、夏未も行ったことがある。公立小学校の図書館とつながった施設で、地域住民や子どもたちに欠かせない場所になっていた。源田の「子ども広場」からも近く、日曜日は学校側の図書を誰でも利用できたが、コロナ禍ではそれも制限されている。
「南原さんが勤めていらっしゃったのは、どこの図書館ですか?」
図書館のことを明るく語る華に、夏未はためらいなく尋ねた。九月に会ったときは、職業を聞いただけで、勤務地まで知ることはなかった。
「わたしは……二十三区ではなく、東京の西の方の図書館です」
視線を落として、華は語気を弱めた。
深入りしてはいけないと察して、夏未は、これまで得ていた「南原華の個人情報」を頭の中で整理する。
自分より三つ年下なこと。図書館で十八年働いたこと。二週間前に仕事を辞めたこと。中学時代の恩師である橘丈一と、六年前に生涯学習センターで再会したこと。おそらく、「橘さん」から私の存在を聞いていたのだろう。でも、なぜ、わざわざ連絡してきたのか。「お渡ししたいものがある」と言った。まさか、二人は男女の関係で、何かの形見を持ってきたのか。いや、そんなはずはない。六年前の橘丈一は、もう七十七の高齢だったのだから――考えがさまざま巡っていく。「もう、父ではない」人の知り合いに、どう向き合えばいいのか。仕事みたいにインタビューして、答えを得ていけばいいのか。
「橘さんを、図書館でいちばん最初にお見かけしたとき、わたしは児童書の担当でした」
夏未の内心を読み取るように、華が抑えた口調で切り出した。
「えっ? 図書館で、ですか?」
「はい、まったくの偶然でした……」
「いちばん最初」「児童書」――九月に聞かなかった言葉が夏未を立ち止まらせる。橘丈一と南原華は生涯学習センターの講座で会ったはずだ。
「その日、貸出担当の人がお子さんの熱で休み、たまたま、わたしがカウンターに座っていたんです。二階の児童書コーナーから一階に降りて……」
華はサングラスを外すと、またいつでもかけられるようにテンプルを折りたたまずにテーブルに置いた。陽光はすっかり遠のいている。
「受け取った図書館カードのお名前を見て、『あれっ?』と思いました。でも、お顔をまじまじ見るのは失礼なので、本をお渡しするときに、口元をちらっと確認したんです」
夏未は、その意味がすぐに分かった。橘丈一は唇の右横に大きく膨らんだホクロがあった。一重瞼で、太くも細くもない目と眉毛――それは、日本人の典型的な顔に際立った「橘丈一の印(しるし)」だった。「パパのニコニコスイッチだよ」と、泣き虫だった夏未に触らせていたホクロだ。
「いまみたいなマスク生活だったら、お顔では判断できなかったと思います」
夏未と同じ考えを華が発した。線の細い声で、再会したときのぎこちなさは薄れているが、千代田区の図書館を語っていたときの明るさはない。
「その数週間後のわたしの担当替えと、生涯学習センターで橘さんにお声がけしたのが、だいたい一緒の時期でした」
「……お訊きしていいですか?」
(つづく)
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