二〇二二*十〇〇四 その2

ほどなくして、源田が大人のテーブルにステンレス製のタンブラーを置き、腰を落ち着かせる。

「ウーロン茶です。よかったらどうぞ。すぐに飲み物を出さずに失礼しました」

「ゲンちゃん、ありがとう。どうぞお構いなく」

ペットボトルをしまう坂井の横で、夏未も目礼する。

「才川さん、今日は何でも聞いてください。フリーペーパーでご紹介いただくのは光栄なので。さっき、撮影はNGって言いましたけど、僕が撮った写真の中から、保護者の了解を得ているものをメールで送りますね」

「ありがとうございます。助かります。源田さんは、洋食のシェフだと……」

「はい。でも、ここで出す料理は、できるだけ『家庭の味』にしています。おにぎりを握ることだってありますよ。食器も子ども用を揃えました。洋食にはこだわってません」

動作ランプを灯したICレコーダーが源田の前に置かれる。

「一日のうちの短い時間ですが、大切なお子さんを預かるので、衛生管理はもちろん、危機管理にものすごく気を配ってます。ピーエル……生産物賠償責任保険に入り直したり、オンラインの講習会を受けたりしました」

「装飾も備品も、子ども仕様に変えたんですね」

頭上の万国旗を指差す夏未に、源田はこくりとうなづき、マスクを外して自分のタンブラーを傾けてから、向かいの二人にも勧めた。ヘアスタイルを隠したニット帽とマスクから開放された無精ひげが相まって、夏未には源田が不健康に見えた。肉付きの薄さが眼光を鋭くし、喉ぼとけがやけに尖っている。

「どうして僕が、いわゆる『子ども食堂』なるものを始めたかを話した方がいいですね」

今度は、坂井と夏未がうなづく。

「理由は単純なんです。僕は妻も子もいないので、僕が作る料理で小さい子の喜ぶ顔を見たかった。それだけ。店にはお子さん連れのお客さんもいましたけど……」

いったん止まった告白が、子どもたちの食事を目立たせる。

「……つまり、僕のエゴですね」

そう続けて、源田は目元に笑い皺を作った。

「『家庭の味』にしているとはいえ、ゲンちゃんの料理を食べられる子は幸せだねぇ」

「まぁ、味はさておき……忙しいママやパパが、たまには夕飯の準備をしないで済むといいですね。それと、不登校の子も、ここで友達と過ごしてます」

見守り係の相良が子どもたちの動きを確認しながら室内を一巡していく。黙食のルールはしっかり守られている。

「お店を営業しながらの運営は、難しかったのでしょうか?」

「うーん……時間が限られてますからね。僕はまだまだやりたいこともあるし。会社員で言えば、『役職定年』で店長を辞めたってカンジかな」

六十歳を過ぎてからの「定年退職」では遅かったのか? お店を辞めたのはコロナの影響か? 経済的には大丈夫なのか?――湧き立つ疑問を失礼のない訊き方に夏未が変えようとした矢先、子どもたちが「おかわり!」と連呼した。と、同時に、「わーん」という泣き声がこだまする。

真っ赤なスカートを履いた子が、顔をくしゃくしゃにして「子ども広場」に駆け込んできた。マスクをつけず、素足に大人のサンダルをつっかけている。

落雷の瞬間みたいに、全員がピタリと動きを止めた。みんなが「チカリン」と呼んでいる小学二年生だった。

「ネコが……ネコがぁ……おっきい、くろい、の、がぁ……うちに、いてぇ……」

肩を震わせ、呼吸を乱して、途切れ途切れに発するチカリンに、源田は真正面で向き合い、鼻の頭を同じ高さにしてしゃがんだ。相良が大粒の涙をハンカチで拭き取っていき、しゃくりあげながらの話に、全員が耳を傾けた。

普段は家にいる母親が留守で、玄関の扉に鍵がかかっていた。不思議に思いながら、合鍵で入り、靴と靴下を脱いでリビングに行くと、見たことのない黒猫がいた。視線がぶつかると、その猫は爪を立て、歯を剥き出して威嚇してきたという。どうやら、母親が洗濯物を取り込んだときに掃き出し窓を閉め忘れ、買い物に出かけてしまったようだ。

「そっか、そうかぁ……チカリン、怖かったのかぁ。そりゃ、びっくりしたよなぁ。でも、もう大丈夫だ。ここに、みんないるから」

源田がチカリンの頭を撫でながら言うと、輪になった子どもたちが、順番を競うように、元気づける言葉をかけていった。

「不審者じゃなく、ネコで良かった」と、坂井がつぶやく。

唇がピンクに戻り、チカリンは口角を上げて頬を緩めた。それから、相良が家まで送ってくれることに安心して、「バイバイ!」と手を振りながら階段を降りていった。

「友達と一緒にカレーを食べさせたかったけど、家の人が心配しちゃうから、今日はしかたない……まぁ、交番でなく、ここに来てくれたことが、僕はうれしいけど」

着席する源田と目が合った夏未は、幼いときに新宿のデパートで両親とはぐれたことを思い出した。案内所で父に抱きしめられ、声をあげて泣いたこと。その後に、デパートのレストランでストロベリーパフェを食べ、同じフロアの書店で本を買ってもらったこと……それは、ずっと欲しかった「花の図鑑」だった。

「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも……子どもを大切に思う大人の気持ちこそが宝モンだねぇ」

万葉集の歌を朗々と披露して、坂井が高らかに笑う。

やがて、何事もなかったようにインタビューが再開され、子どもたちが食事を終えるタイミングで読み聞かせ担当がやって来た。大学四年のその学生は、春に入社する企業でインターンシップを始めるので、新年から「子ども広場」には来なくなるという。「そんなに早く社会に出なくてもいいのになぁ」と、源田は坂井と夏未に同意を求める調子で言い、「読み聞かせの人を探さなきゃ」と、ニット帽に潜らせた指でこめかみを掻いた。

子どもたちが学生にじゃれつく。

夏未は、《ひろばのおやくそく》について、源田に尋ねた。

「もちろん、ルールを守れない子はいっぱいいます。友達に会えば、おしゃべりしたくなるのが普通ですから。でも、僕が注意しなくても、勉強中に『シィー!』のジャスチャーをしたり……子どもは大人が思うよりもしっかりしてますね」

四人の子どもを見つめて、源田は言葉を続ける。

「約束を守れないこと、ルールを破ることには、きっと、何かの理由があります。友達を大切にしないのはどうしてか、大人の手伝いができないのはなぜか……僕は、みんなが納得いくなら、ルール違反をしてもいいと思っています。理由を知ること……その子が理由を話せなくても、僕自身で考えたり、想像するのを大切にしています」

ビルの階段口で、源田は帽子を脱いでお辞儀し、頭部のところどころに残った、絹糸みたいな毛を露わにした。事情に気づいた夏未は、息を飲んだことが悟られないよう、坂井から聞いていたふうを装って、再会の約束をして別れた。

日の入りで、建物に囲まれた路地はすっかり暗くなっている。

源田の闘病を伏せていた坂井は、いささか気まずい思いで夏未と地下鉄の駅まで歩き、治療と仕事を両立することの困難さを感情の抑揚をつけずに語った。

(つづく)

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