二〇二二*十〇〇四 その1

南原華という女性から電話があったこと、その後、平日に九段下のカフェで会ったこと、華が自分と同世代で、図書館司書で、教師だった橘丈一の教え子だったということ――夏未は、それらを順序立てて坂井文也(さかいふみや)に話した。

「じゃあ、その人は、なっちゃんのお父さんの話をしたかったわけ?」

すっかり白くなった髪に手櫛を入れて、坂井が訊く。

「そうだと思いますけど……でも、橘丈一は、もう私の父ではないし、南原さんが連絡してきたのは見当違いでしょう。私には原稿の締め切りもあって、南原さんも『ご挨拶だけ』と言うので、短く切り上げました。橘さんの話は聞きたくなかったし……」

自分が発した「橘さん」という言葉の響きに納得して、夏未は取材用のバッグからマスクを出した。

夏未は、大学に進学した十九歳のときに、父方の「橘」姓から母方の「才川」姓になった。母が望んだ離婚ではなく、父が決めたことだった。

「橘丈一は、もう私の父ではない」――夏未の強い言葉に、坂井は眉を八の字にする。

二十五年前、坂井文也の編集プロダクションに才川夏未が新卒入社したときに、経営者の坂井は夏未の家庭環境を本人から聞いていた。ただ、「もう私の父ではない」という言い方は意想外で、夏未が華にしたように、話を切り上げるしかなかった。

「いつも、私の仕事を気にかけてくださり、ありがとうございます」

「橘さん」で淀みかけた空気を、夏未は坂井への素直な気持ちで入れ替え、ストローの袋と飲み終えたグラスをひとつのトレーにまとめていく。

「こちらこそ、今回も取材を受けてくれてありがとう。なっちゃんは、私のような編プロからの安い原稿じゃなく、ギャラのいい出版社の仕事で忙しいのに、なんだか申し訳ないな」

「いえいえ、坂井社長からいただくインタビューの仕事は楽しいですから」

「そう言ってもらえると、僕はうれしいよ」

カフェを出て、二人は目的の場所に向かう。時間が少しあったので、道すがら、駿河台の交差点を左に曲がり、小さな社を参拝した。御朱印でも人気の五十(ごとう)稲荷神社だ。

「ここは、正式には栄寿(えいじゅ)稲荷神社。いまはこじんまりしてるけど、昔は二百坪の社地があったんだ。二百坪ってのは、学校の二十五メートルプールが正方形になったくらいの広さだよ」

東京の神田で生まれ、神保町にオフィスを構える坂井が説明した。物事をできるだけ具体的に伝えようとする姿勢は若い頃から変わらない。そんな坂井の下で七年間働いた夏未にとっても、この界隈は馴染み深く、都道三〇二号線沿いに連なる古書店一軒一軒の屋号をいまでも憶えている。

目的の場所、かつての洋食レストラン「さんるうふ」は、千代田通りと本郷通りに挟まれた区画にあった。アイボリーホワイトの壁面を目印にした雑居ビルの二階だ。一階には整骨院と理髪店が並び、夕刻に向かう秋の陽がサインポールの赤色を薄めている。

ランドセルを背負った小学生が坂井と夏未を追い越して、走りのスピードを緩めずに、ビルの階段を上がっていった。

店の入り口はエレベーターを降りた正面にあり、「こんにちは」と、坂井が中を覗き込む。自動ドアは「開」の状態でロックされ、入店者をチェックするように、向日葵柄のマスクをつけた年輩女性がキャッシュカウンターの横に立っていた。

「坂井社長、ようこそ!」

厨房から、ダークグレーのニット帽を被った男が顔を出し、夏未は坂井から一歩下がった位置で会釈して、六つのテーブル席のある店内を見渡した。東向きの窓が暗い分、天井に埋め込まれたダウンライトが程よい明かりを与えている。その照明の下で、テーブルを囲む四人の子どもたちが、新顔の大人をいっせいに見つめた。一人は、坂井と夏未を追い抜いていった男の子だ。

「ゲンちゃん、今日はよろしくお願いします。こちらが才川夏未さん。わたしとは長い付き合いの売れっ子ライター」

「売れっ子」という紹介に気恥ずかしさを感じた夏未に、源田勇(げんだいさむ)は腰下エプロンで手を拭き、あらかじめ用意していた自分の名刺を、ダンガリーシャツの胸ポケットから出した。二重瞼の眼は猛禽類に似た鋭さだが、来客に向けた表情は歓迎の意思を伝えている。室内に飾られた万国旗のイメージも手伝って、夏未には源田が南米かどこかの外国人のように見えた。

「いつもはボランティアの学生もいるんですけど、今日は子どもが少ないので、大人は、僕と見守り係の相良(さがら)さんだけです。あとで、読み聞かせ担当が来ますけど」

「見守り係? 読み聞かせ担当?」

間髪入れずに坂井が問うと、源田はテーブル席に二人を誘(いざな)った。子どもたちは教科書やノートを広げて、勉強の姿勢に戻っている。

「子どもが入ってきやすくするため、扉はいつも開けています。だから、怪しい人が来ないように、相良さんみたいなベテランの方に守っていただいているんです。調理係の僕は目が届かないことも多いので。本の読み聞かせは……ご飯を食べたあとの子どもたちのお楽しみタイムですね」

火にかけたままの鍋を気にする感じで、源田が早口で説明する。

「ここは、子ども食堂、ですよね?」

夏未がメモの手を止めて、坂井から聞いていた話と答え合わせしていく。

「はい。でも、僕は、『子ども広場』って呼んでます。レストランは廃業したけど、僕は料理人なので、子ども相手に無償で食べ物を出して……でも、それだけじゃつまらないから、みんなで宿題をしたり、本を読んだり、この前は知り合いのマジシャンに来てもらって、手品会をしました」

「今日は人数が少ないとおっしゃいましたが……」

「ええ、普段はだいたい十人くらいかな。曜日とコロナの影響で変動しますけど」

「集まるのは地域の子たちですね?」

「そうです。ほとんどが神田界隈、千代田区の子たち……でも、東京ドームのそばに住んでいる、隣りの区の子もいます。わざわざ、ここまでやって来るんです」

源田と夏未の間断ないやりとりを聞きながら、坂井は、自習をおとなしく続ける子どもたちに目を細める。

夏未は、「子ども食堂」に「貧困」という言葉を結びつけてしまう自分の浅慮を恥じた。源田勇が司る空間は、コロナ禍の子どもたちの居場所になって、あらゆる子育て家庭を支援しているのだった。廃業の理由と源田自身の家族のことが気になるものの、込み入った質問は控えて、発せられた言葉を筆記していく。

「録音されて構いませんよ。撮影はNGですが、音声はOK……子どもたちにご飯を出してきますので、少しだけお待ちください」

源田が席を立つと、お下げ髪の女の子が「ご飯」という言葉に反応して、バンザイのジェスチャーをした。後ろの壁には、《ひろばのおやくそく》と書かれた紙が貼られている。

《おしゃべりは決められた時間だけ ともだちを大切に おとなのお手伝いをしよう》

「ここは、昼休みは階段に行列ができるくらいだったんだよ。だから、僕は時間をずらしてランチを食べに来てた。なっちゃんが神保町にいた頃は、この建物自体がなかったね」

ショルダーバッグからペットボトルを出して、坂井が言う。

「お店を辞められたのはもったいないですね。まだお若そうなのに……」

「……ゲンちゃんは五十代半ばだから……どうだろう。ま、アーリー・リタイヤってやつかな」

右側に座る夏未と視線を合わせずに、坂田は緑茶を口に含んだ。夏未も自分のペットボトルの蓋を開けて、マスクを外す。

カレーのほのかな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

「おっし! マスクなしで取りに来ていいぞぉ」

源田が厨房から子どもたちに威勢よく呼びかけると、半袖半ズボンの男の子が真っ先に席を立って、「いっただきー!」とガッツポーズした。「子ども広場」のゆったり感と、今月に入ってコロナ陽性者の数が減ったこともあって、感染予防は緩くなっているが、「いただきます」の声を合図に、アクリル板のパーテーションが黙食を促し、冷暖房機の送風音にスプーンの動きが重なるだけになった。

壁際のテーブルの近くには、絵本や漫画を納めた白木製のブックシェルフがあって、最上段にラウンド型のフラワーアレンジメントが置かれている。その色とりどりの花を見て、夏未は、「花に関わる仕事をしたい」と、ずっと昔に両親に話したことを記憶から引き出した。「フラワー装飾技能士の資格を取りたい」と熱く語ると、父も母も包容あふれる笑みを浮かべた。社会で働く自分の姿を自由に想像できた、「橘夏未」の頃だ。

(つづく)

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