第48話 太陽

 優美と別れることに際してなにより懸念していたのは、優美がクラスで浮いてしまわないかということだ。

 優美は俺を優先し、ほかの友人をおざなりにしすぎた。いくら人気者の優美と雖も、いきなり拗れた関係を修復することはまず不可能だろう。


 優美はこれからうまくやっていけるのだろうか。


 結論から言って、それは俺の杞憂で終わった。


「アニメアニメって、あの子たち、赤点組なのにテストに危機感覚えてないのかねぇ」

「気持ちはわかるけどね。今やってるアニメおもしろいの多いし」

「え、優美ってアニメとか見るの?」


 大津さんと話し、そこからひとり、ふたりと会話に参加する生徒が増えて、気づけば優美を中心とする大きな集団ができている。

 そんないつからかなくなっていた日常が、再びクラスに戻っていた。


「今どき、見てない方がおかしいでしょ。ちなみにわたしのイチ押しはね――」


 笑顔を繕う癖がなくなったわけではないし、一切周囲に流されなくなったわけではない。


 けれど、優美は変わろうとしていた。

 その努力が垣間見られたから、俺は安心することができた。

 優美はこれからきっと、自分の力で幸せを探していける。幸せになることができる。


 俺の選択は正しかったんだって、そのときようやく心から思えた。


 帰りのホームルームが終わり、ある生徒は部活に、ある生徒は仲のいい友だちの元に向かって駄弁りはじめる。

 廊下側の席で手を振ってふたりの生徒が別れる姿を見送ったところで、俺は席を立って残された生徒の元に詰め寄った。


「葉月、いっしょに帰らないか?」


 俺の提案にぱちぱち目をしばたたかせると、葉月は弾けるような笑顔を見せてうなずいた。


「うんっ! 帰ろ帰ろっ!」


 ぎゅっと腕に抱きついてくる葉月の姿を見て、俺は確信した。

 俺はもう、葉月に必要不可欠な存在ではないんだなって。


 しばらく登校を拒否して家にこもっていた葉月だけど、ある日から突然学校に来るようになった。

 、だそうだ。

 そう嬉しそうに話す葉月は、いつもと変わらない笑みをふりまいていて……


「……もう大丈夫そうだな」


 それがうれしくもあり、ちょっぴり寂しくもあった。


○○○


 電車に隣り合って座り、手をつないで家まで歩いて、葉月が作ってくれた夕飯をいっしょに食べる。

 それは何度も繰り返してきたことで、もうすっかり日常に溶け込んでいたもので。


 ――だから、明日からこのひと時がなくなるんだって実感が、この期に及んでも、まるで湧いてこない。


「へへっ、はーちゃんの勝ちっ!」


 食後、俺たちはオセロに興じていた。


 オセロに将棋に花札に。幼少期の経験が将来に及ぼす影響というのは恐ろしいもので、葉月はソシャゲなんかにまるで興味を示さず、未だにボードゲームに熱中している。


「ん~っ……そろそろいい時間だし、お風呂入る?」


 時刻は八時。電車と徒歩での移動時間を合わせて、だいたい二十分。

 透子は基本的に十時に寝るから、遅くても九時頃には葉月の家を出たい。


「……葉月。ちょっといいかな」


 立ち上がって背中を伸ばしていた葉月が、ぴたっと動きを止める。


「ん。急にまじめにどーしたの?」


 そう問いかけてくる葉月は、俺のよく知っている葉月で。

 途方に暮れる捨て犬のように寂しげな顔をする葉月はもういなくて。


「終わりにしよう」

「――うん。いいよ」

「え」


 葛藤や逡巡、そういったものを一切見せることなく、葉月は俺の提案を聞き入れた。

 あまりにすんなり聞き入れられたものだから、切り出した俺の方が取り乱してしまう。


「いや、終わりにするって、オセロのことじゃないぞ?」

「わかってるよ」


 葉月は達観した笑みを浮かべている。


「恋人関係を終わらせようって、そうやっちゃんは言ってるんだよね?」


 その表情が物語る。

 葉月の心の整理は既に済んでいるのだと。


「そろそろかなって、前々から思ってたんだよね。ついにこの日が来ちゃったかぁ~」


 膝を畳んで姿勢を正し、へへっとおどけるような笑みを向けてくる。


「ありがとね、やっちゃん。やっちゃんのおかげで、はーちゃん元気になれたよっ」

「……つらくないのか?」

「う~ん、全然つらくないって言うと嘘になるかな。でもね、はーちゃんはやっちゃんが幸せになってくれるのが一番うれしいから、悲しいとか寂しいとかそういうのはあまりないんだ」


 弾けるように微笑んだ。


「……あ、違うよ? やっちゃんがあんまり好きじゃないとか、そういうことじゃなくてね……」


 わたわた胸の前で手を振っている。

 俺は軽く噴き出してしまう。


「そうやって慌てられると、本音なんじゃないかって疑っちゃうなぁ」

「ほんとなんだってばっ! ……といっても、証明する術はないけど」

「ごめんな葉月」


 たった一言だ。けれど、その一言に含まれる謝意はあまり大きく、とてつもなく重たい。


 俺は葉月からいくつものはじめてを奪った。

 その多くは、取り立てられても決して返すことのできないものばかりだ。


 そして約束も破ろうとしている。

 彼氏になって。その約束はあと少しで反故される。いや、既に反故しているのかもしれない。

 いずれにせよ、この約束が守り通されることはない。


「ごめんで終わるのはヤだな」


 眉尻を下げて、軽いトーンで葉月はいう。


「ありがとうって、最後は感謝で締めくくってほしい」


 寂しげな顔を見せたかと思えば、次の瞬間には白い歯を見せて楽しげな顔つきになっている。


「それがはーちゃんからのお願い。だから前までのはなし。こっちのを叶えてよ」


 やっぱり、葉月には笑顔がよく似合う。


「葉月……」


 約束を破れば、俺が自責すると知っているからだろう。

 葉月はそんな、俺にとってあまりに都合の良すぎる提案をしてくる。


「はーちゃんの最後のお願いごと、叶えてよやっちゃん」


 徐々に葉月の笑顔に寂寥の色が滲みはじめ、伴って俺の胸の閉塞感が存在を色濃くしていく。


 平気なはずなんてないんだ。けど、葉月は俺のためにがんばってくれている。


 気づかなければよかった。そうすれば、こんな苦しさを感じることはなかった。

 けど、この痛みは葉月とのつながりの証だ。葉月を心から想っていたことのなによりの証拠だ。


「……ありがとう葉月」

「お礼を言うのはこっちの方だよ。ありがとう、やっちゃんっ」


 太陽みたいに眩しい葉月の笑顔に微笑み返して、俺は腰を持ち上げる。


「……うぅ」


 リビングから出ようとしたときだった。


「ひぐっ、うぁ、うえぇぇ……」


 あと少し廊下を歩いて、靴を履き替えるだけ。


 あと少しだった。

 けど、その瞬間は俺がいなくなるより早く訪れてしまった。


「いかないでぇ~、いかないでよぉやっちゃぁんっ」


 振り返ると、涙で顔をくしゃくしゃにする葉月と視線が絡まった。


「やっちゃんっ、やっちゃんっ」


 葉月は、何度も何度も、俺の名前を口にする。

 涙を拭い、嗚咽を漏らし、何度も何度も、俺の名前を口にする。


「……」


 昔の記憶が蘇る。


『はーちゃんっ、はーちゃんっ』

『大丈夫。はーちゃんはいなくならないよ』


 母さんが亡くなって塞ぎ込んだ俺に、葉月だけが手を差し伸べてくれた。情けなく泣きじゃくる俺を、葉月は何日も慰めてくれた。

 周囲のやつらはそんな俺を気持ち悪いってバカにし、けど葉月だけは俺の味方でいてくれた。葉月のおかげで、俺は立ち直ることができた。


『はーちゃん、俺、未来がこわいんだ。ほんとにいいことなんて待ってるのかな』

『ん~、どうだろうね。けど、進めば進んだ分だけ、はーちゃんは未来は輝くものだと思ってるよ。やっちゃんも、あそこで足を止めなかったから、こうしてはーちゃんと仲良くなる未来にたどり着けたわけじゃん? はーちゃんはやっちゃんと仲良くなれてす~っごくうれしいよっ』


 葉月はずっと俺の側にいてくれた。俺を支え続けてくれた。

 いつからか俺と葉月は付き合ってるんじゃないか、なんて噂が流れはじめたけど、葉月はそんな噂を歯牙にもかけず、毎日俺に話しかけてくれた。

 葉月は決して、俺を見捨てようとしなかった。


 ――葉月は俺の太陽だった。


「やっちゃんっ、やっちゃんっ」


 葉月が、俺の名前を呼んでいる。

 俺が欲しいと、俺の名前を呼んでいる。


「ヤだよ……わかれたくないよっ。はーちゃんと……はーちゃんといっしょにいてよぉ~!」


 あの頃と立場が逆転している。

 俺が葉月を弱くしたからだ。俺は葉月を不幸にする。


「……ごめん」


 だから、俺は前を向く。

 心を鬼にして、赤子のようにえんえんと泣く葉月を放置する。


「やっちゃぁんっ!」


 一歩。一歩。

 着実に出口に近づいていく。


「ねぇやっちゃん、はーちゃんとやっちゃんは、これからも親友だよね?」


 靴を履いていると、その声はすぐ近くから聞こえた。

 振り返れば、涙でうるうる瞳を潤ませて、こちらを不安げな顔で見つめる葉月がいる。俺との距離は一メートルほど。


「……」


 俺を思ってのことだろう。俺が拒絶する限り、葉月は優しいから決してその距離を無理やり詰めない。


 葉月の優しさが、堪らなく痛かった。


「恋人じゃなくなっても、親友じゃなくなるわけじゃないよね?」


 そんなことできるわけない。親友から恋人になれても、恋人から親友に戻ることは不可能だ。


 そのことは、葉月もわかっているはずだ。けど、受け入れたくないのだろう。


 ――俺との関係が、ここで金輪際途絶えるという現実を。


「……明日からは、ただのクラスメイトだな」


 俺もつらい。葉月となよなよ恋人と親友の中間みたいな半端な間柄でいたい。


 けど、ダメだ。ここできっぱり関係を終わらせないと、きっとまた同じことを繰り返すことになる。

 だから、すべて無に帰さなければならない。

 

 ――もう、俺と葉月とは、友だちでもいられない。


「そんな……そんな、ことって……」


 ぶるぶる肩を震わせる葉月。


「……俺は大好きなはーちゃんに幸せになってほしいんだ」


 微笑みかけてしまった。


「これからつらいこととか悲しいことが、たくさん待ち構えてるのかもしれない。けど、はーちゃんなら大丈夫だから」


 目頭が熱くなる。まっすぐ俺を見つめる葉月の視線が痛い。


 けど、目は逸らさない。


「俺はずっと、はーちゃんの幸せを願ってる。……だから葉月、ここでさよならだ」


 玄関の扉を開けて外に出る。


「うあああああぁぁぁぁ!」


 すぐに、扉の向こうから大きな泣き声が聞こえてきた。

 俺は扉にもたれかかり、背中に葉月の悲痛な叫びを感じながら夜空を仰ぎ見る。


「……ごめんね、はーちゃん」


 遠くに見える満月が徐々にぼやけていく。


 ほどなくして、耳をつんざく嗚咽がひとつからふたつになった。

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