第47話 あなたの幸せのために

 翌日の放課後、俺は優美と喫茶店に来ていた。


「あっつ~。もう夏も本番だね」


 ぱたぱたと、優美が手をうちわにして顔を扇ぐ。


 六月もまもなく折り返し地点。ミンミンとセミの鳴く声が、当たり前に聞こえる季節となった。


 汗が引いて冷房が少し肌寒く感じてきたところで、注文した飲みものが運ばれてくる。


「それで大事な話って?」


 アイスココアを一口すすり、優美は問いかけてくる。


 朝から優美はいつも通りだった。

 昨日、学校を休んだ俺を心配して。休み時間になるたびに楽しそうに話しかけにきてくれて。


 大事な話があるからいつもの喫茶店に行かないかと俺が誘えば、「やったぁ! 息抜きだぁ!」と、小躍りでもしそうな勢いで喜ぶ。


 ……ごめんな。来週の中間テストまで付き添ってあげられなくて。


 優美は、勘繰るなんてことを知らない純粋で素直な子だ。

 だから、喫茶店に行こうと俺が突然言い出しても、優美は首を傾げることなくとことこついてきてくれる。


 俺に全幅の信頼を置いているから。俺と過ごす時間が楽しいって、心から思っているから。


「慎哉くん?」


 ここにきてようやく、優美はアーモンドの形をした瞳に疑問を宿した。


 喜怒哀楽が如実に宿る瞳だった。

 優美は喜びだけでなく、怒りや悲しみも俺に向けてくれた。


 優美は正直だった。俺に嘘をつかなかった。

 いつでも俺と正面から向き合ってくれた。


「別れよう」


 そんな優美を俺は愛しているから、その言葉をすんなり口にすることができた。


「……………………ぇ」


 両手でコップを持ったまま、優美は固まっている。

 

 店内に俺たち以外の客はいないから、俺の言葉ははっきり聞こえたはずだ。

 理解が追いついていないのだろう。いや、理解することを拒んでいるのかもしれない。


「別れよう、俺たち」


 俺は、もう一度、同じ言葉を繰り返す。


「……」


 コップを机の上に置き、優美は睫毛の下に瞳を伏せておずおずと口を開く。


「……なにがダメだったのかな」

「っ……!」


 胸が、強く痛んだ。


 懐かしい感覚だった。歪な関係に日がな浸かっているために死んでいた俺の感情が、ようやく息を吹き返しはじめたようだ。


 思えば、朝食も昼食もしっかり味がしていた。手足の震えも今朝から一切ない。

 どうやら俺は、ようやく正常になったらしい。


 ははっと、自嘲するような笑みを小さく漏らし、優美は沈んだ声色で続ける。


「ウザかったよね。いつも周りをうろついて」


 ……耐えろ。


「自覚はあったんだよね。けど、やめられなかった。やめたくなかった」


 耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ……


「少しでも長く、慎哉くんの側にいたかったんだ……」


 優美が顔をあげる。


「気持ち悪いよね、わたしって」


 言って、自虐するように力ない微笑みを浮かべる優美の瞳は。


「……」


 震える声色からわかっていたことだけど、しずくの膜が綺麗な瞳を輝かせていて。

 なのに優美は、嗚咽を漏らさず、水滴をこぼさず、必死に笑みを繕っていて……


「……」


 心が悲鳴をあげている。こんな俺のなかにも残されたほんの僅かな良心が、俺を厳しく叱咤してくる。


 このままでは決意が揺らぎかねない。

 が、こうなることははじめから想定していた。透子が予測した通りになった。


 次に起こす行動は決まっている。


「ウザいなんて思ったことは一度もないよ」


 ――そうだよ。ずっとウザいと思ってた


 優美を冷たくあしらい、完膚なきまでに、関係を瓦解させる。


 それが、俺がこれからしなければならないこと。

 優美の幸せのために、俺に最後にできることだ。


「毎日楽しかった。優美と過ごす時間は心地よくてさ。マンガを読む。勉強する。恋人らしいことをする。どの時間も終わるのが惜しかった。時間が止まればなって、何度も思った」


 ――毎日ダルかった。優美はめんどくさくてさ。マンガを読む。勉強する。恋人らしいことをする。どの時間も終わりが待ち遠しかった。秒針がもっと早く進めばなって、何度も思った。


 ……ふざけんなよ俺。優美になんてこと言うんだよ。


 けど、こうでもしないと優美は失望してくれないから、尚も俺はを吐き続ける。


「別れたくないよ、ほんとはさ」


 ――ずっと別れたかったんだよ。ほんとはさ


「けど、俺じゃ優美を幸せにできないから。俺は優美を不幸にするだけだから」


 ――このままじゃ俺は幸せになれないから。優美が俺を不幸にするから


 ……なに言ってんだよ。優美は何度も俺を幸せな心地にしてくれたじゃないか。


 気づけば視界にモヤがかかっていた。


 ……なに泣いてんだよ。傷つけながら泣くとか意味わかんないだろ。


 自覚できたのが救いだった。

 目頭を擦り、再び視線を優美に向ける。


「慎哉くん……」


 優美の顔から笑みは消失し、代わりに哀しみが浮かんでいた。


「……ごめんね。わたし、ずっと慎哉くんを苦しめたんだね」


 優美の頬を一筋の涙が伝う。

 けど、優美は必死に笑顔を繕おうとする。無理して釣りあげた口角がぴくぴくと痙攣している。


「優美……」


 胸が痛い。痛くて苦しくて張り裂けてしまいそうだ。


「……愛してるんだよ」


 ――大嫌いなんだよ


 それでも俺は、優美の幸せのために悪を演じる。


 俺との絶縁が、優美を救える唯一の方法だから。

 自分にそう強く言い聞かせて……


「ずっとずっと側にいたいよ。俺が優美を幸せにしたいよ」


 もう、自分がなんて言ってるのかもわからない。


「……でもさ、ダメなんだよ。は俺がいないと生きていけない」


 想いが、勝手に口を衝いて、あふれる。


「だから……ごめん優美。、破ってもいいかな?」

「……やっと、見つけた」


 涙と嗚咽を飲み込み、優美はしわがれた声を絞り出す。


 もう限界なんだと思う。俺よりも遥かに優美は苦しいんだと思う。


 けど、それでも、優美は笑っていた。


「これが、わたしが慎哉くんのために……あなたの幸せのためにできることなんだね」


 にっこりと頬をやわらげると――優美は俺の顔にココアを勢いよくかけてきた。


「っ……」


 鼻を突き抜ける芳醇な香り。ダークブラウンに染まる白いカッターシャツ。

 鋭く細めた目で俺を射抜き、優美は冷たく言い放つ。


「――もう二度と話しかけないで」


 俺を一顧だにせず、優美は早足で喫茶店から出て行く。


「……」


 その後ろ姿を呆然と見送り、俺は乾いた笑みを漏らす。


「……はは」


 もう気張る必要はない。

 全身から力が抜けていき、視界は……あれ? いつから曇ってたっけ?


 生ぬるいおしぼりを広げて顔の上に乗せる。

 と、隣にある窓が外からこんこん一定のリズムで叩かれる。おしぼりをどける。


「……ぇ」


 優美がいた。


 優美が口を動かす。言葉は窓に遮られて届かない。


「……優美」


 鼻をすすって満面の笑みを浮かべると、優美はごしごし目頭を擦り前を向いて歩き出した。


 優美が人波に呑まれていく。

 俺と優美の物語が、最終話が、まもなく終わりを迎える。


「……俺もだよ」


 ずっと近くにいたから、隣にいたから、言葉が届かなくても想いは伝わる。伝わってしまう。


 ――ありがとう。大好きだったよ


 それが、優美が俺に残した最後の言葉。


「……ぁ、あぁ……」


 優美は、最後まで俺を責めなかった。

 ずっとずっと、俺の味方でいてくれた。俺のワガママを聞き入れてくれた。

 

 ――俺の幸せのために、優美は俺と絶縁してくれた。


「ぅぁ、あっ……あああぁぁぁぁ!」


 感情が荒ぶり、俺は改めて確信する。


 俺はこの先、いつまでもこの恋を引きずっていくことになるんだって。


○○○


 優美との恋人関係にピリオドを打ち、葉月との恋人関係にも決着をつける。

 そう透子と約束していたけど、俺は弱いから、優美との関係が瓦解しただけで歩みを止めてしまった。


「優美……優美……っ」

「つらいのによくがんばったね。えらいえらい」


 日が沈み、夜のとばりが下りて、遠くで奏でられる鈴虫の合唱が聞こえるくらいに街が静まり返り。

 それだけ時間が流れても俺は立ち直ることができず、透子の胸で泣き続けている。


「それだけ鴨川さんを大切に想ってたんだよ。倒錯的な関係に溺れても、優劣なく全員を一途に想うことができる。世間はそれを最低だって非難するんだろうけど、私はすごいことだと思うよ」


 食事中に涙がこぼれたときも、お風呂で嗚咽を漏らしてしまったときも、透子は一も二もなく俺を慰めてくれた。


 大丈夫だよ、つらかったねって、透子は俺の心に寄り添ってくれる。

 そのあたたかい愛情が、傷つき弱った俺の心を、癒していく。


 現実と向き合う強さを与えてくれる。


「……明日、葉月ともちゃんと別れるから。約束、守れなくてごめん」

「全然気にしてないよ。明日もあたためてあげるから。だから、がんばって慎哉」

「……うん。がんばるよ、俺」


 優しくくちびるを重ねる。


「ありがとう透子」

「こちらこそ、いつもありがとう」


 頬に短いキスが返された。

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