第45話 約束
――透子ちゃんと家族になってから二日目の夜のこと。
背中に違和感を覚えて目を覚ますと、透子ちゃんが抱きついていた。
『どうしたの?』
『あったかいなぁ』
蒸し暑い夏の夜だった。
けれど、透子ちゃんの身体はぷるぷると小刻みに震えていた。
『寒いの?』
『うん。寒くて全然眠れない』
両親が亡くなった日から、毎日二、三時間程度の仮眠しかとれていないのだという。これまでは毎晩、母親に抱きついて眠っていたのだそうだ。
俺は寝返りを打って、透子ちゃんを抱き締めた。
『俺でも代役は務まるかな』
強く抱き締めたらこわれてしまいそうな華奢な身体は頼りなくて、ネグリジェ越しに仄かな体温を感じて、柔らかなふくらみの先でとくとくと脈打つ鼓動が俺の鼓動と共鳴するのがなんだか心地よくて。
興奮しなかったと言えば嘘になる。
俺だって男だ。女の子を抱き締めるのははじめてのことだったから、人並みの感動と緊張が俺の身体を震わせた。
――けど家族だ。
そう自分に言い聞かせて、俺は逸る鼓動を鎮める。
『うん。あったかくて気持ちいい。これなら眠れそう』
ほどなくして、こくこく透子ちゃんの首が前後に揺れ動きはじめる。瞬きの回数が徐々に少なく、瞳よりも睫毛を見ている時間の方が長くなる。
そして透子ちゃんは眠りに落ちた。
翌朝、いっしょに朝食をとっているときに透子ちゃんは言った。
『ねぇ慎哉。これからもいっしょに寝てくれる?』
どこか不安そうな瞳に、俺はうなずきを返した。
『うん、いいよ。透子ちゃんが満足するまで、俺はずっと透子ちゃんの側にいる』
目を丸くする透子ちゃん。
身に纏う怜悧な風貌に反して感情の起伏が表情に表れやすいことを知ったのはこのときだ。
『ほんと? 私が頼めば、慎哉はずっと私の側にいてくれるの?』
大袈裟だなぁと思い、俺は苦笑してしまう。
『うん、約束する。俺は透子ちゃんから離れないよ』
『じゃあ指切り』
指切りげんまん~と、声を弾ませて透子ちゃんは歌う。
歌い終えると、透子ちゃんはどこか照れくさそうな笑みを向けてきた。
それがはじめて見た透子ちゃんの笑顔だった。
――今でもよく覚えている。
○○○
「鴨川さんと辻さんとは、約束があるから別れないんだよね? 約束を破れないから、ふたりと付き合ってるんだよね? でもね慎哉、そのことを知ってるのは私だけなんだよ。私だけが、約束を破って傷ついた慎哉を癒すことができる。ふたりにはできないけど、私だけは慎哉を癒すことができる。約束を守ってなんて強情なことは言わない。だから慎哉、私を選んで?」
必死だった。口早で、いつにも増して饒舌で。
ここまで焦燥に駆られる透子ちゃんなんて、これまでに見た覚えがない。
「……」
俺は、振り返ってしまった。
「おねがいだよぉ、しんやぁ~」
普段の冷静な挙動は虚勢なのではないかと疑ってしまうほどに、今の透子ちゃんは稚く、激情的で、そして不安定だった。
俺は透子ちゃんに歩み寄って腰を下ろし、諭すような優しい声色でその名前を呼ぶ。
「透子」
「わかってるんだよぉ。家族でそういう関係になるのはよくないって。でも、私は慎哉がどうしようもないくらいに好きだから。もうこの気持ちに嘘はつけないから。だから――」
頭と腰に手を回して身体を引き寄せ――俺は透子のくちびるを奪った。
「っ……!」
キスと呼んでいいのか怪しい、ふんわりとお互いのくちびるを触れ合わせるだけのキス。
けど、これでいい。透子はキスが苦手みたいだから、経験のある俺がリードしていかなきゃいけない。
顔を離すと、透子はぱちぱち瞬きして狼狽を露わにしていた。
「……どう、して?」
「いやだった?」
ぶんぶん透子はかぶりを振る。
情緒が不安定だからか、挙措がいつにも増して子ども染みている。
「ほんと、変わらないな透子は」
依然として状況が掴めないという風に呆然とする透子の頭を撫でる。
「ごめんね。今まで気づいてあげられなくて」
どうして透子ちゃんの告白を聞き入れたのか。
その理由は至って単純で、俺がいないと透子ちゃんは生きていけないからだ。
――ブランケット症候群。
おそらくは透子ちゃんが患っているであろうその病を、俺はこれまで軽視していた。
俺がいないと安心して眠れないとはいっても、眠れないというわけではないと勝手に結論づけていた。
誤った憶測だった。
優美にはじめてを捧げた翌日。葉月の家に泊まった翌日。
俺が隣り合って眠っていない日の翌日、透子ちゃんは決まって眠そうにしていた。
――当然だ。寝ていないんだから。
つまるところ、俺は透子ちゃんが健康状態を維持するために欠かせない存在なのだ。
優美や葉月とは訳が違う。透子ちゃんの問題は命に関わってくる。
だから俺は、透子ちゃんの告白を聞き入れた。透子ちゃんを〝透子〟として受け入れた。
……と、それが俺の築きあげた世間も納得してくれそうな理論武装。
「俺もだよ」
それだけを理由に、優美と葉月を切り離すと決断するのは早計だ。
まだ透子がブランケット症候群と確定したわけではないし、不治の病と確定したわけでもないのだから。
けど、俺が透子を選べばみんな幸せになれる。
そんな甘い誘惑に、弱い俺は耐え忍ぶことができなかった。
透子に恋愛感情を向けていないというのも嘘だ。
向けていないだけで、芽生えていないわけではない。
誰にも透子を渡したくないし、透子が告白されたと知ったときはイラついたし、守りたいし、いつまでも俺だけの透子でいてほしいし、誰かの透子になってほしくない。
家族だから、それはいけないことだから、とその想いから目を背けていたけど、その決して世間からは許されない非倫理な愛で、優美を、葉月を、そして透子を救えるというのなら――俺は快く社会的に死んで最低な告白をしよう。
「俺も、透子のことがずっと好きだったよ」
だから、優美とのファーストキスを激写されても怒れなかったし、デートをストーキングされても、嫌な気分にならなかった。
母親みたいに過保護で、俺をしっかり見てくれて、たまにちょっぴり嫉妬を見せる透子のことが俺は好きだったから。
ひとりの女の子として――異性として、魅力的だと思っていたから。
目を背けていたけど、気づいていないふりをしていたけど、ずっと昔から、俺は透子に抱く確かな好意を自覚していたから……
ただひとつ、不鮮明なことがある。
俺は、その愛が、家族愛なのか、異性愛なのか、判別をつけられていない。
「透子、俺にはじめてをくれないか?」
だからこれから、異性愛だと決定づける儀式をする。
好きなんて生半可な想いでは決して至れない行為を通して。
「うん、いいよ」
突飛な提案であるにもかかわらず、透子はすんなり聞き入れてくれた。
「じゃあ慎哉の部屋いこ?」
さすが家族だ。俺の考えていることが手に取るようにわかるらしい。
「……俺の部屋か」
これも一種の天罰だろう。
――そこは、俺が優美にはじめてを捧げた場所だ。
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