第44話 家族
――四年前のこと。
母さんが亡くなってから二年。
父さんは格闘家を引退して某有名格闘技団体のCEOとなり、それにより収入が高い水準で安定しつつあった頃に、俺は都会に上京した。
それまで俺は、田舎にある母さんの両親――祖父母の家で暮らしていた。
二年間放置したかと思えば、突然やってきて俺を都心に連れて行くと言い出す父さん。
当時、俺は葉月に恋していた。付き合ってはいないけど、そうなるまでは秒読みという段階にまで来ていた。
母さんを失ったことで俺の胸にぽっかり空いた穴を埋めてくれたのは、父さんでも祖父母でもなく、葉月だった。
あの頃の俺にとって、葉月は誰よりも大切な存在だった。
だから食い下がった。
行きたくない。ずっとここにいたいって。
すると父さんは、中学二年生の俺に土下座して頼み込んできた。
『一生の頼みだ。俺についてきてほしい』
父さんが俺の養育を祖父母に任せたのは、自身の収入を上げて、俺を絶対に安全な場所に住まわせるためであったこと。
そのために、生涯格闘家として食っていくという夢を捨てて、運営者としての地盤をこの二年で固めたこと。
すべては、あの惨劇を――家族を失うという悲劇を、二度と繰り返したくないためであること。
涙と嗚咽混じりに話す父さんを見ているうちに、俺は大声をあげて泣いていた。
俺は深い愛を感じていた。
祖父母も惜しみない愛を俺に注いでくれたけど、肉親が向けてくれる愛というものは格別だった。
俺は、父さんの頼みを聞き入れて上京することにした。
一週間後、俺を迎えに父さんがやってきた。
隣には、俺と同じくらいの背丈の短く髪を切り揃えた女の子がいた。
『この子は透子。今日から俺たちの家族だ』
父さんがなにを言っているのかよくわからなかった。
聞けば、この子の両親は先日事故で亡くなったらしい。
血のつながった親族はひとりの高齢の男性しかいなかったため、親友の誼みで父さんが引き取ることにしたようだ。
孤児院で暮らすか、矢地家の一員になるか。どちらがいいかと父さんが訊ねたら、彼女は後者を選んだとのこと。
『俺は慎哉。よろしくね』
戸惑いもあったけど、それを遥かに凌駕する同情とシンパシーがあった。
同じ家族を失ったもの同士、わかりあえる気がした。
伸ばした俺の手は握られず、彼女は小さくうなずいた。
――それが俺と透子ちゃんの出逢いだった。
○○○
「んむぅ、んぅっ……」
くちびるとくちびるがうまく重ならず、歯と歯がぶつかるカチカチという音が響いている。加えて独占欲を示唆するように何度も激しく行為に及ぶものだから、俺の口のなかは鉄の味に満ちている。たぶん、どこかから出血しているのだろう。
いつ口が切れたのかはわからない。今、意識が浮上したばかりだから。
「んちゅぅ、ん……はむぅ……んぁ」
意識が覚醒したはいいが……果たして目を開くべきだろうか。
優美か葉月かは定かではないが、いずれにせよ俺が目を開けば気まずくなることは間違いない。
目をつぶって事が済むのを待とうと試みるが、一向にそのときが訪れる気配はない。
むしろ過激になっている。くちびるが痛い。ひりひりする。
……たぶん優美だな。優美はキスというより、そういう行為全般に奥手で――
「……」
いつの話だ? それって?
「うーん、うまくできないなぁ」
聞き慣れた声。
優美のものでも、葉月のものでもない声。
うっすらとまぶたを持ち上げると、スリップ姿の透子ちゃんがぼんやりと見える。
「……透子ちゃん?」
状況が呑み込めない。
透子ちゃんは、俺の下腹部の上に跨っている。
「ふふっ」
怪しく微笑んで耳に髪をかけると、ゆっくり身体を倒して俺にくちびるを重ねてくる。
「んっ……」
ちゅるちゅる音が鳴る。
俺の舌を吸い上げようとしているのだろう。けれどうまくいかず、身体を起こして透子ちゃんは不満そうにくちびるを尖らせる。
そして再び身体を倒し――
「ダメだ。透子ちゃん」
俺は身体を起こし、華奢な肩を両手で強く掴んだ。
「おはよう慎哉」
顔に浮かべるにこやかな笑みは、いつものものと変わらない。
けど、蕩けた瞳。赤く火照った頬。唾液に塗れた口許。
それらがあまりに非現実的なものだから、これは夢なのではないかと疑ってしまう。
「いつっ……」
が、口に感じるひりひりとした痛みが突きつけてくる。
これは現実なんだって。
「キスって難しいね。うまくできないから教えてよ」
「……もう体調は大丈夫なの?」
いろいろと言いたいことはあるが、まずはその確認が最優先だ。
「うん、平気だよ」
その返答に、俺はほっと胸を撫で下ろす。
「言ったでしょ。ただの睡眠不足だって」
心配性だなぁと、くすくす笑う透子ちゃん。
「……それで透子ちゃん。この状況はなに?」
依然として、透子ちゃんは俺の下腹部にまたがったままだ。
「嫌だった?」
しゅんと肩を縮めて、申し訳なさそうな瞳を向けてくる。
「いやとかそういう話じゃない。俺たちは〝家族〟だろ?」
だから、透子ちゃんを恋愛対象として見たことは一度だってない。
可愛いだとか、付き合いたいだとか、それは絶対に家族に向けてはいけない感情だから。
「でも、血のつながらない家族だよ?」
透子ちゃんは言った。
「私は慎哉と付き合うことも結婚することもできる。〝きょうだい〟にはその権利があるって、慎哉も知ってるでしょ?」
知っている。
知っているけど……
「……急にどうしちゃったんだよ透子ちゃん」
でも、家族だ。
「今まで家族してただろ、俺たち」
恋人になるのはまちがっている。
「私はずっと慎哉のことが好きだったよ」
微笑みながら透子ちゃんは言った。
「好きだから手助けしてきた。大好きな慎哉が幸せになれたら、私も幸せになれるんだと思ってた。……けど違った」
きゅっと握りしめた拳を胸にあてて、俺を見つめてくる。
まっすぐで、本気で、強い覚悟を宿した瞳だった。
「辻さんに慎哉のファーストキスを奪われてすごく悔しかったし、鴨川さんが慎哉のはじめてを奪ったときは危うく部屋から飛び出しそうになった」
優美とはじめて性行為に及んだ日の翌日、透子ちゃんは言っていた。パンツがだめになったって。
言われなくてもわかっていた。
だってあの夜、優美が寝ついたあとに隣の部屋から絶えず熱っぽい声が聞こえていたから。……無意識に、耳を澄ませてしまっていたから。
「ずっとずっと胸が苦しかったけど、最近になってようやくわかった。私は、私の慎哉を誰にも渡したくなかったの」
俺の頬に片手を添えて、透子ちゃんは柔和な笑みを浮かべる。
「私は慎哉を幸せにできる。――だから私と付き合おう?」
透子ちゃんが顔を近づけてくる。
「そうすれば、全部全部うまくいく。慎哉も鴨川さんも辻さんも、みんなみんな幸せになれる。慎哉の理想の結末でしょ?」
吐息が鼻頭にかかるほど近い距離に迫る。
「だから――」
「ダメだ」
あと数センチでくちびるが重なる距離。
けれど透子ちゃんは、俺の待ったを聞き入れてぴたりと動きを止めてくれる。透子ちゃんは俺の指示には絶対に逆らわない。
「俺は透子ちゃんをそんな風に思ったことはない。だからダメだ」
透子ちゃんを見つめて、俺は毅然という。
「……だめ、なの?」
潤んだ瞳が、揺らぐ。
けど、妥協はしない。透子ちゃんのためだから。
「あぁ。俺は透子ちゃんとは付き合えない」
「……そう」
強く言い切ると、透子ちゃんは力なく腕を下ろして、目尻に小さな水たまりを作りはじめる。ひくひくとしゃくり上げる声が俺の鼓膜を揺らす。
「……」
込みあげる感情を押し殺して俺は傍観に徹する。
そうするのが、この場においての最適解だから。もう、同じ過ちを繰り返すわけにはいかないから。
泣きじゃくる透子ちゃんを無視して、俺は腰を持ち上げる。
「じゃあ俺、シャワー浴びてくるから」
「……約束してくれたのに」
ぼそっと、運ばれてきたのは、囁くように小さな声。
「いつまでも側にいてくれるって」
「……」
けれど、その小さな声は、俺のやわらかい部分に深く突き刺さって。
足が縫いつけられたみたいに動かなくなって……
「鴨川さんや辻さんとの約束はあんなに厳守するのに、私との約束は守ってくれないの?」
「……」
「家族が一番大切なんだよね? なのに家族を一番雑に扱うの?」
「……」
「ねぇしんやぁ」
「……」
「こっち向いてよ……」
振り向いたら、すべてが終わる。取り返しのつかないことなる。
だから俺は――
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