第43話 不合格

 黄金色に白んだ空の下を歩き、電車に揺られて帰宅する。


 ここ最近は眠りが浅く、寝てもまるで疲労が取れた気がしない。

 漏れ出そうになった欠伸を噛み殺す。景色が少し揺らいでいるのは、きっと電車が揺れているからだろう。そう、自分に言い聞かせる。


 二駅通過して、最寄り駅で降りる。


 歩きながら、脳内で今日の予定をシミュレーションする。


 まず、家で荷物をまとめて葉月の家に行く。朝食は葉月の家でとることにしよう。俺がいないと、葉月は食事をしないから。


 学校では、ほとんどの時間を優美と過ごすことになるだろう。

 一日中側にいられると鬱陶しい……なんてことはなく、ころころ変わる優美の表情が、楽しそうに話しかけてくる姿が、俺に安らぎをもたらしてれる。

 優美といるときは、なにも無理する必要がなくて楽だ。とても心地いい。


 放課後は、家で優美と勉強会だ。

 昨日は世界史だったから、今日は数学にしよう。優美は特に数学が苦手だ。応用問題はまだ早いから、基礎問題を集中的に解くことにしよう。まずはどの公式をどの場面が使うのか、覚えるところからだ。


 優美を送り届けたら、葉月を慰めに行かなければならない。

 きっと葉月はもう大丈夫だよって言うんだろうけど、大丈夫なはずがない。

 人間は弱い生きものだから、傷ついたこころを修復するには多大な時間を要する。 だからそれまで、俺は葉月を傷つけた責任を取るために寄り添わなくてはならない。当然の償いだ。


 そして、葉月の隣で眠りにつき、一日が終わった。


「……はは、今日もいつも通りじゃないか」


 変わろう、変えよう、そう何度自問しようが、結局俺はなにもできずに今に溺れつづける。

 優美のため、葉月のため、そして俺自身のために、そうするのが一番だから。


 だから俺は、今日も演じる。

 眩暈、味覚障害、手足の異常な痙攣。

 そのすべてに気づきながらも目を背けて、ふたりにすべてを捧げる。


 俺にとって大切なのは、ふたりだけだから。


 ふたりだけが、俺のすべてだから。


「やっとかえってきたぁ」


 一日ぶりに家に戻ってきた俺を、どこか甘えるような声が迎え入れる。


「……透子ちゃん?」


 スリップ姿でクッションを抱いて、ぺたんと床に座る透子ちゃん。

 とろけるような笑みを浮かべているけど、目の下はまっくろで、頬は少しこけていて、目に見えて衰弱していて……


「……っ!」


 まさかの可能性に、ぞっと全身が粟立つ。


「……いつから寝てないんだ?」


 昨日、俺の隣の席は空席じゃなかったか?


「さぁ?」


 透子ちゃんは楽しそうに微笑んでいる。


「それより慎哉、いっしょに寝よ。私、もう眠くて眠くて――」


 言ってる途中で、透子ちゃんが前屈みに倒れる。頭を強く床にぶつける。


「透子ちゃん!」


 駆け寄って抱きかかえてはじめて、透子ちゃんの瞳に俺が映っていないことに気づく。両手と両足に力が入っていない。呼吸は荒いし、肩は小刻みに震えている。


「……救急車。救急車は――」

「泣かないで慎哉」


 冷たいてのひらが俺の頬に添えられる。


「寝不足が祟っただけなのに、慎哉は大袈裟すぎるよ。そんなに私が心配なの?」

「あたりまえだ。家族なんだから」


 もう失うわけにはいかない。

 家族の幸せは、俺のなかでありとあらゆる事柄に優先する。


「ふふ。そっかぁ」


 満足そうに微笑む透子ちゃんを抱き上げて寝室に向かう。


「慎哉、目のしたまっくろ。顔も少しこけてる」

「透子ちゃんも同じだよ。俺のことなんてどうだっていい。透子ちゃんが最優先だ」

「もっと自分を大切にしなきゃダメだよ。……慎哉、つらい?」

「そうなったのは俺のせいだ。自業自得なんだ。ふたりはなにも悪くない。全部全部、自分勝手で優柔不断な俺が悪いんだよ。だから――」

「そんなに自分をいじめないで」


 慈愛に満ちた瞳が俺に向けられていた。


「悪いのは慎哉だけじゃない。みんな悪いんだよ」


 月の光を宿したように、鋭く冷たい透子ちゃんの瞳。

 けどその瞳は、たまに包み込むようなあたたかさに満ちることがある。


「透子ちゃん……」


 それは決まって、俺が弱さを吐露したとき。


「だから責めないであげて。私の大切な慎哉が可愛そう」


 俺を慰めるために、その瞳は一切の敵愾心を削ぎ落とす。

 俺を傷つけないために。そっと癒すように……


「……はは、この期に及んで俺は……透子ちゃんに助けてもらってばかりじゃないか」


 情けなさで涙が溢れ出す。

 涙で視界を曇らせながらも、足を止めずに寝室に向かう。


「ふたりは不合格だね。慎哉をこんなになるまで追い詰めるなんて」


 微笑んで透子ちゃんは言った。


「私の慎哉、返してもらうよ」


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