第42話 助けて
俺も優美も葉月も幸せになる。
そんな結末は存在せず、俺が選択を先延ばしにすればするほど、バッドエンドに磨きがかかっていく。
見えずともわかる。――この物語の終着点で待つのは破滅だ。
いつか透子ちゃんは全員が幸せになる方法が存在すると言っていたけど、たぶんそれは優美が俺に失望して絶縁することによって生まれるものだったんだと思う。
いくら透子ちゃんと雖も、まさか優美が諦めずに対抗意識を燃やしはじめるなんて展開は予想していなかったはずだから。
「そっか。今日は鴨川さんとそんなことがあったんだね」
沈んだ声で葉月がいう。
優美を送り届けた俺は、いつものように葉月の家にやってきた。
いっしょに夕飯を食べて、いっしょにお風呂に入って、葉月が寝つくまで側にいるのがいつもの日課だ。
昨日に至っては、家に帰らず葉月の家で夜を明かしている。
帰らないで、と涙目で縋られたら聞き入れるしかない。愛する葉月が悲しんでいるのに無視して帰ることなどできるはずがなかった。
「ごめんね。はーちゃんのせいでふたりの仲を険悪にしちゃって」
はーちゃんのせいで。
そう葉月が口にするたびに、俺は湧きあがる罪悪感に苛まれて苦しくなる。
「葉月はなにも悪くないよ。だから謝らないで」
「ううん、はーちゃんにやっちゃんなんていらないって言える勇気があれば、今頃やっちゃんは鴨川さんと普通の恋愛ができてるはずだもん」
その可能性は限りなくゼロだと思う。
俺も優美も既に歪んでいる。きっとそこらの恋人がするような、可愛らしい恋愛では満足できない身体になっているはずだ。そしてそれは、おそらく葉月も。
「ごめんね。はーちゃん弱虫で」
ごめんね。
その言葉を、あの日から何度耳にしただろう。
優美にこっぴどく仕返しされたあの日の夜、葉月は俺に電話してきた。
――寂しいよ。寒いよ。
電話で聞いたのはその二言だけだ。
それだけ聞いて、俺は電話を切って家を飛び出したから。
合鍵を使って葉月の家に入ると真っ暗だった。どこからかしくしくすすり泣く声が聞こえた。葉月の部屋からだった。
葉月はベッドの上で体操座りして泣いていた。部屋に入ってきた俺に気づかないほどに、ひとりの世界に閉じこもっていた。
俺は葉月を後ろから抱き締めた。抱き締めなければいけないと思った。
「葉月は弱虫なんかじゃない。酷いことした俺が全部悪いんだ」
そうしなければ……いやそうしなくても、葉月が儚く散ってしまうような気がしたから。
「謝るのははーちゃんの方だよ。ごめんね。やっちゃんなんて大嫌いって言えなくて」
こんな状態のまま、葉月はもう一週間以上もの時間を過ごしている。
ずっと沈みこんだまま。ふさぎ込んだまま。
学校にもこないでずっとひとりこの部屋に引きこもって。
食事もろくにしないから、身体はどんどん細くなって、元から小さな身体が以前よりも小さくなったように思えて。
……そのまま、葉月が世界に潰されて消えてしまいそうで。
「葉月が謝ることなんてなにもないよ」
だから俺は、葉月を世界に留めるために抱き締めつづける。
「だから泣かないで。俺が側にいるから」
絶対に、愛しいこの子を手放したくないから。
「……わかってるんだよ。やっちゃんは、はーちゃんのことを嫌いになんてなってないって」
葉月は言った。
「でも、選ばなきゃいけないから、やっちゃんははーちゃんを傷つけて嫌われようとした。……わかってたんだよ。だから、はーちゃんも言おうとしたんだよ。大嫌い。やっちゃんなんてもう見たくない。二度と話しかけないでって」
葉月が俺を振り返る。
顔は涙でくしゃくしゃだった。
「でも、できなかった。だって、やっちゃんが好きだもん。やっちゃんを傷つけるなんてはーちゃんにはできない」
「葉月……」
「ねぇやっちゃん。あのとき、はーちゃんを庇ってくれたよね?」
あのとき――
「当然だろ。俺は葉月を愛してるんだから」
優美が葉月を言葉という暴力で傷つけていたとき。
俺は見るに堪えず、優美の口をキスで塞いだ。乱暴なキスで塞いだ。
優美は優しいキスより、激しいキスが好きだ。だから俺の真意など知らずに優美は興奮して、葉月は俺を軽蔑して……と、そうなるのが理想だった。
「……やっちゃんは優しすぎるんだよ」
長年の付き合いというのは厄介だと思う。
意思伝達が簡単にできて便利で。けどなんでも理解されてしまうが故に、伝わってほしくないと思っていることも伝わってしまって。
「……きらい。どっか行ってよ」
「行くわけないだろ」
「ほっといてよ。はーちゃんのことなんて」
「大丈夫。俺は葉月から離れないよ」
葉月は再び、嗚咽混じりに涙を流しはじめる。
「うぇぐっ、ごめん……ごめんね、やっちゃん……」
「泣かないでよ。俺は笑ってる葉月が好きなんだ」
抱き締めて頭を撫でながら慰める。
それが、今の俺にできる精一杯だ。
「……はーちゃん、鴨川さんよりもやっちゃんを喜ばせるから」
「そんなことしなくていい。俺は葉月といっしょにいるだけで満たされてるよ」
「……じゃあさ、はーちゃんはやっちゃんになにを返せばいいの?」
「なにもいらない。だって俺は葉月から奪い過ぎてる。返さなきゃいけないのは俺の方なんだ」
その多くは、どう足掻いても返すことができないもの。
――ファーストキス。
――はじめての仲良しごっこ。
俺は、もらいすぎた。
だから責任を取らなくちゃいけない。
「……はーちゃん、がんばってひとりで歩けるようになるから」
ごしごしと葉月が目頭を拭う。
「だからそれまで。それまででいいから。……はーちゃんの秘密の彼氏でいてくれないかな?」
「もちろん。最初からそのつもりだよ」
拭い損ねた涙の跡を指の腹で拭い、頭を撫でて俺は微笑みかける。
「歩けば歩いた分だけ未来が輝く。このトンネルを抜けるまで、俺といっしょにがんばろう」
「……うん」
ようやく葉月の顔がちょっぴりほころぶ。
「ありがとうやっちゃん。はーちゃん、がんばるね」
と、葉月が決意を露わにするのは今日がはじめてではなくて。
昨日も、一昨日も、その前の日も、俺は同じ宣言を耳にしている。
「うん。がんばろう」
何度も同じ話をして、何度も同じ決意をして、けど翌日にはその出来事を綺麗さっぱり忘れてしまうくらいに、葉月は精神的に弱っていた。
目に見えて葉月の依存は強くなっている。どんどんダメになっている。
けど、だからといって突き放すこともできない。
そんなことをしたら、葉月は修復不可能なほどに砕け切ってしまう。辻葉月という女の子が死んでしまう。
こわしきって成長させるというのもひとつの手ではある。けど、それは最終手段だ。あまりに荒療治だし、無責任すぎる。できるだけ葉月が傷つかない形での回復に努めたい。
寝室で隣あって寝転がると、葉月はすぐにすぅすぅ寝息を立てはじめる。
目尻や頬が水滴で光っている。それを拭って身体を起こすと、後ろから裾を引っ張られた。
「かえらないでぇ」
泣きそうな顔で言ってくる。
「ごめん。寝てると思ってた」
「今日も、朝までいてくれないかな?」
なんでそんな申し訳なさそうに言うんだか。
「荷物が家にあるから早朝に一旦帰るけど、それくらいは許してくれるかな」
「うん。そのあと、はーちゃんといっしょに登校しよ……駅まででいいから」
そして、駅まで歩いたら来た道を引き返して家に引きこもる。
いつもの流れだ。
「わかった。ひさびさに手繋いでいこうか」
「うん。ありがとう、やっちゃん」
枕に頭を沈めると、葉月は一分と経たずして眠りに落ちた。
「……どうすればいいんだろうな」
優美と葉月を幸せにするにはどうすればいいか。
実は今がベストなんじゃないかと思っている。
俺の気持ちを完全に振り切らせることで、葉月との関係を断絶させようとしている優美。
俺に依存するのはよくないと思いつつも、なかなか一歩を踏み出すことができない葉月。
俺の想いが完全に優美に傾くか、葉月が成長しない限り、理論上はこの状態を無限に継続することができる。
俺の浮気じみた行動……いや、俺が浮気していると知りながらも、優美は無理やりやめさせようとはしてこないから。
「……そんなの卑怯だろ」
時間の流れに身を委ねるのは楽だ。
なにもせず、ただその瞬間が訪れるのを待つだけでいい。
けど、わかってる。――どれだけ待っても、その瞬間は訪れないって。
俺が優美か葉月を諦めない以上、この負の連鎖が絶たれることはない。
優美はどんどん本来の良さを損なっていくだろうし、葉月はどんどん弱っていく。
そうわかっていながらも、俺はどちらも切り離せない。どちらも大切だから切り離せない。
切り離さなかった先に、希望なんてないとわかっているのに……
「……助けて透子ちゃん」
眠気で意識は朦朧とし、無意識に口を衝いて出た言葉だから、自分がなんて言ったのかはわからない。
少しだけ胸が軽くなったから、きっとなにか名案を口にしたんだと思う。
葉月の寝息に呼吸を合わせて、俺は眠りに落ちていく。
「……助けて透子ちゃん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます