第41話 最低で最悪の嘘つき
優美は、真面目に勉強と向き合うようになった。
「今日もよくがんばったね。えらいぞ優美」
「えへへ~もっと褒めて~」
「コンスタンティヌス」
「えっと……ニケーア公会議!」
「正解。テオドシウスは?」
「えぇっと……コン……っ、コンスタンティノープル公会議!」
「正解」
ご褒美として頭を撫でる。
「ふふ、慎哉くんのおかげで今回の中間テストは満点取れちゃうかも」
「この調子なら、その半分くらいは獲れそうだね」
「そこは嘘でも肯定してほしかったなぁ」
優美と家で勉強して、午後八時くらいを目安に家まで送り届ける。
それがここ最近の日課だ。優美がサボらなかったから日課になった。
優美はよくがんばっていると思う。着実に実力もつけている。
このペースでいけば、俺の志望校に合格することも不可能ではない。まぁ相当難しいことには変わりないけど。
「ねぇ慎哉くん」
カーブがなければ大きな傾斜もない平坦な道を進んでいるから、電車が大きく揺れることはない。
俺を見つめる優美の目はとろんとしていて、見るからに眠そうだ。
「寝てていいよ。二駅くらい前で起こすから」
「やだ。お話したい」
きゅっと俺の手を握り締めてくる。
「慎哉くんはさ、わたしになにかしてほしいことってある?」
夜の色に染まる街を見つめながら、優美は静かに問いかけてくる。
「もう充分いろいろなことしてもらってる。ここまでしてもらって満足できないほど、俺は欲しがり屋じゃないよ」
帰宅ピークも過ぎ去り、車内に乗客の姿はほとんどない。
優美がこてんと俺の肩に頭を預けてくる。ふわりと漂うシャンプーの香りが、俺を穏やかな心地にする。
「わたし、もらってばかりだね」
ぽつりと優美は口にした。
「俺ももらってる。お互い様だよ」
「ううん。全然足りてないよ。だって、足りてるなら慎哉くんはわたしだけを見てくれてるはずだもん」
「……っ!」
息が詰まりそうになった。
「よそ見なんてするはずないもん」
「……」
「あの子とまだ別れてないんだよね?」
色のない瞳で俺の顔を覗き込んでくる。
優しい声色。落ちついた挙動。
怒っているのか、怒っていないのか、俺にはよくわからない。
「……うん。別れてない」
「どっちにするか決められないから?」
「……」
「別に怒ってないから、そんな顔しないで」
優美は困惑顔を浮かべる。
「隠しごとされたのはちょっと傷つくけどね」
と、優美はスマホの画面を俺に見せてくる。
「……え?」
目を疑った。
「わたしを送り届けたら、次はあの子の家に行くんだよね?」
優美が撮ったのか? ……いやそんなはずはない。
だって俺は優美を毎日送り届けている。
優美が改札口に向けて歩いていく姿を見送っている。
俺が目を離してから車両を変えて……ということならできないことはないが、俺の知る鴨川優美という女の子はそんな面倒なことをしない。
――スマホの画面には、俺と葉月が駅の改札口の前でキスする写真が収められていた。
と、ここで終われば以前までの話だと言い逃れすることができるけど、駅の改札口の上に取り付けられたデジタル時計が一昨日の日付を示しているから、どう足掻いても言い訳できない。
「慎哉くんは優しいね」
優美は言った。
「あの子のためにわたしを振ろうとしたり、わたしのためにあの子を振ろうとしたり……。けどね慎哉くん、どちらかが幸せになれば、どちらかが不幸になるんだよ」
わかってる。
「全員が幸せになれるなんてことはありえない。幸福は不幸の上に築かれるんだよ」
わかってるけど……
「……だからって、自分のせいで不幸になった相手を放っておくことはできないよ」
「ほんとにそうなのかな」
優美は首を傾げる。
「困ってるひとを助けたい。その気持ちは、間違いなく優しい優しい慎哉くんのなかにあるんだと思う」
ぐいっと俺との距離を縮め、俺の顔をじっと覗き込んでくる。
まるで、俺がずっと胸の奥底に隠している怯懦を引きずり出すように。
「けど、それだけじゃない。あの子から離れたくない。あの子の側にいたい。あの子を誰にも渡したくない。そんな独占欲もあるんじゃないかな?」
「……」
図星だった。
俺は誰にも葉月を渡したくないし、俺だけの葉月でいてほしい。
優美を選び、優美を愛していながらも、その想いはくすぶりつづけている。
「わかるよ。わたしもこのあいだ、同じ気持ちになったからね」
微笑んで、優美はもたれかかるように俺に身体を預けてくる。
「だから悪いのは、慎哉くんを中途半端にさせちゃう魅力のないわたしなんだよ。わたしが立派な彼女で、求められたものをしっかり与えられていれば、きっとこんなことにはならなかった。こんなわたしに、慎哉くんのしてることを咎める権利はない。イラつくし、悔しいけど、我慢しなきゃいけない。八つ当たりするよりも、どうすれば慎哉くんがわたしだけを見てくれるか考える方が有意義だからね。……どうかな? なかなか理に適ってると思わない?」
「……そうだね」
曖昧に答えると、優美は気分を良くして腕を抱き締める力を強めてくる。
「わたしだけの慎哉くんだもん」
芯の強い声だった。
「誰にも渡さない。慎哉くんはあの子に同情して付き添ってるだけで、ほんとに愛してるのはわたしだもんね。一番はわたしだもんね」
確かな覚悟を感じさせる声だった。
「だから慎哉くんの悪いところも愛すよ。だってわたしは慎哉くんを誰より愛してるもん。全部全部好きだもん」
「……」
「ねぇ慎哉くん、わたしのこと好きって言ってよ」
俺を見据えるアーモンド形の瞳は、不安に揺らいでいるように見えた。
「……好きだよ」
「全然足りない。大好きって言って」
「大好きだよ」
「あの子よりもわたしを愛してるよね?」
「……」
「うん。いいよ。今はそれで」
寂しげな微笑みを湛えると、優美は俺の頬にキスしてくる。
「でもすぐに、わたしだけを愛してるって言わせるからね?」
俺の耳に顔を寄せて、優美は耳打ちするように静かにささやく。
「慎哉くんがあの子を捨てても、わたしは慎哉くんのことを変わらず愛すよ」
「……」
「大丈夫。あの子は可愛いから、すぐに新しい飼い主が見つかる。あとは慎哉くんが覚悟を決めるだけだよ」
「……」
「わたしの言うこと、なんでも聞くって約束したよね?」
「……っ」
「あの子と別れて」
約束、したことだ。優美の約束は絶対で、それが俺の贖罪。
だから、俺は……
「――なんて言っても慎哉くんは別れないんだろうなぁ」
くすくす微笑み、優美は言った。
「だって、わたしの愛する慎哉くんは最低の嘘つきだもん」
「……」
「最低で最悪の嘘つきだよ」
その通りだと思った。
俺は、最低で最悪の嘘つきだ。
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