第39話 こわれた彼女

 優美は完全にこわれていた。


「それでね、そこからがすごいんだ」

「どこがどうすごいの?」

「えっとね、タオルで目が塞がれてて、イヤフォンも外れてるのに、ちっとも音を外さないの。曲とドラムがぴったり。音が聞こえてないのにだよ? すごくない?」

「さすがプロって感じだね」

「でしょでしょ? あ、そういえば、土曜日なんだけど――」


 話が飛んだり、オチがなかったり、そんなことは日常茶飯事だから問題でもなんでもない。


 いつも通りなんだ。


 ――今が授業と授業のあいだにある休み時間であることを除けば。


「……あのさ優美」


 前の席に座る大津さんが、おずおずと話しかけてくる。


 いつも隣にいる透子ちゃんは、ここ最近、気を遣ってか休み時間になるとすぐに廊下に出ていく。そして、その席に優美が座る。


 それがここ数日の日常風景。

 以前までとはまるで違う、閉鎖的な優美との世界。


「ごめん、今慎哉くんと話してるから」


 すげなく返す優美は、大津さんを一瞥すらもしない。


「……うん、わかった」


 俺だけの優美になっていた。


 優美だけを愛すると約束してから一週間。

 登校してから下校するまで、優美はずっと俺の側にいる。まるで俺以外のクラスメイトが見えていないかのように、俺だけに接してくる。


 はじめはみんな困惑していたけど、今となってはそれが日常だから誰もなにも言わない。いや、なにも言えないのだろう。


 みんな気づいてる。今の優美は、以前までの優美とは別人だって。


 葉月を中心とする集団に続いて優美を中心とする集団も瓦解し、ついに俺のクラスから大人数の集団というものは消滅した。

 みんなふたりや三人の小規模なグループを作って、その小さな世界で楽しそうに過ごしている。楽しそうに過ごしているのが唯一の救いだった。


牧菜まきなもしつこいよね。絶交だって言ったのに、まだわたしに絡もうとしてくる」


 昼休み。空き教室でお弁当箱の包みを解きながら、優美は煩わしそうにそんな言葉を口にした。


「牧菜に聞いたよ。慎哉くん、叩かれて蹴られたんだって?」


 あの優美が、他人の悪口を叩いている。


 前までは、他人を貶めるようなことは絶対に言わない子だったのに。

 名前の通り、優しくて、美しい子だったのに……


「悪いのは俺だから仕方ないよ。俺も胸倉掴んじゃったし」


 本気で優美を好いているから、あのとき大津さんは俺に暴力を振るってきたのだ。


 大切な親友の彼氏が浮気していた。そのことを知ったからといって、身体の一回り大きい異性に立ち向かうことは難しい。

 すごく勇気がいることだ。俺が大津さんの立場なら同じことはできない。


「正当防衛だよ。慎哉くんは悪くない」


 なのに優美は……


「どこ叩かれたの?」

「……ここら辺だったかな」


 叩かれて蹴り飛ばされた頬を示すと、優美はそっとくちびるを当ててくる。


「ごめんね、看病が遅れちゃって」


 そう言って憂えた顔を見せる優美は、目に見えて俺に同情している。

 大津さんの行動の裏側にあるあたたかい気持ちにはまるで気づいていない。


「優美……」


 前までは俺でも見逃すような些細な優しさに気づけていたのに……


 俺が、優美を変えてしまった。

 俺が、鴨川優美という女の子をこわしたんだ……


「ところで慎哉くん、前にここで〝あの子〟とお弁当の食べさせあいっこしたんだよね?」


 あの子。優美は葉月のことを決まってそう呼ぶ。

 辻さんとも、葉月とも呼ばない。


「うん、したよ」


 これまでに葉月としてきたことは、一切包み隠さず優美に打ち明けている。

 そうするのが俺の贖罪だったし、それは優美との今後の関係を大きく左右するものだと思っていたから。


「どうだった? 楽しかった?」

「……うん、楽しかったよ」

「食べさせあいっこしただけ?」

「……いや、それ以上のこともした」

「具体的には?」

「……キスしたり、触りあいっこしたり」

「ふぅん。……その話、前にはしてくれなかったよね? なんで?」

「……聞かれなかったから」

「そっか。……ごめんね、尋問みたいになっちゃって。そんな顔しないで。慎哉くんをいじめたいわけじゃないんだよ」

「優美……」


 叩く。罵る。泣き叫ぶ。

 俺が想定していたのは、このうちのどれか。


 なんにせよ強い悪感情を向けられることを覚悟していたのだけど、事の顛末を聞き終えた優美は、俺に「ごめんね」と謝ってきた。


「ねぇ慎哉くん、わたし箸忘れちゃった。慎哉くんも箸忘れたよね?」


 満足させてあげられなくてごめん。足りないばかりの彼女でごめん。


「……うん。朝、ちょっと慌ただしくて」


 そんな優美に俺も謝りつづけて事態は収束した。

 俺が軽蔑されて絶縁することもなく、恋人関係はこうして今も継続している。


「じゃあ、わたしが箸の代わりになってあげるね?」


 お弁当箱を開くと、優美はウインナーをくちびるのあいだに挟み、俺の口に運んでくる。


 優美がなにをしようとしているのか、わかっている。

 わかっているのに、俺は、少しずつ優美に顔を近づけていく。


 

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