第37話 断罪の刻

 透子ちゃんのパンケーキ以外の食べものをおいしいと思ったのはいつ以来だろう。

 問題解決の目途が立って安心したからか、長らく麻痺していた味覚が戻っていた。


 お弁当だけでは飽き足らず、購買でパンをふたつ買って頬張る。まだまだ全然食べられそうだが、これ以上は午後の授業に響きそうなので我慢することにする。あとで透子ちゃんに、今夜の夕飯は多めにしてくれないかと頼んでおこう。


 窓を開けて風を浴びる。

 今日は天気がいいから、空気が澄んでいて気持ちいい。

 深く息を吸い込んで吐き出すだけで、心が安らいでいくのを感じる。


 葉月のひとりぼっち問題が解決された今、残された問題は優美との関係を解消することだけだ。


 メッセージアプリで優美とのトーク画面を確認すれば、既読の文字のついていない俺が二日前に送ったメッセージで会話は途絶えている。あの日から進展はない。


「……直接話しかけるしかないか」


 ――関係は破綻した。


 そう片づけてもいいのかもしれないけど、やはりその言葉を優美本人の口から聞くまでは、この問題と向き合い続けなければならないだろう。


 優美のためにも、葉月のためにも、禍根を残してはいけない。この問題をおざなりに扱ってはいけない。

 それは、ふたりにつらい思いをさせてしまった俺にできる償いのひとつだから。


 と、スマホがぶるるっと小刻みに震える。


 目を落として――俺は息を呑んだ。


【今日の放課後。五時に教室で待ってるね】


 優美から届いたメッセージだった。


「……歩けば歩いた分だけ、未来が輝くんだもんな」


 そうだよな、はーちゃん?

 

 深呼吸し、覚悟を決める。


【わかった】


 冷え切った指先を動かし、俺はメッセージを返信した。


○○○


 掃除を終えて、図書館で軽く勉強して。

 放課後になってから一時間が経とうとしたところで、俺はテキストを閉じて教室に向かう。


 午後四時五十分。優美が指定した待ち合わせ時間まで、残り十分だ。

 ぶつかるほど校内に生徒は残っていないので、駆け足で教室に向かう。


「……」


 教室の扉は前も後ろも閉められていた。


「……」


 ごくりと意識的に唾を飲み込み、俺はドアに手をかける。


 指先が震えている。膝が震えている。


「はぁ、はぁ……」


 呼吸が荒くなってくる。背中からぶわっと冷たい汗が噴き出す。視界がゆらゆらと揺らぎはじめた。


 ――けど、逃げることは許されない。


「……ふぅ~」


 大きく息を吐き出し――俺はドアを開けた。


「――遅かったね」


 いつか優美とはじめて話したときも、こんな光景が広がっていた気がする。


「……ごめん。待たせたかな」


 教室は暮れかけの夕陽に赤く染め上げられていて。それがどこかノスタルジックで。


「うん。一週間と一日。ずっとこの日を待ってたよ」


 けれど、あの日とはまるで違う。


 嵐の前を思わせる静けさの沈殿する教室。柔和な笑みを浮かべる優美。


 窓もドアも閉まっているから、聞こえるのは冷房の小さな駆動音だけ。


「こうやって話すのはひさしぶりだね」


 空気が震えるたびに、胸がどくんと、ひときわ大きな弾みをみせる。


「……そうだね」


 冷房が効きすぎているのか、教室は初冬のような冷気に満ちていた。


「こっちきて。ゆっくり話そうよ」


 椅子に腰かけた優美が、手前の椅子を引いてぽんぽんと手で叩く。

 促されるままに、俺は椅子に腰かける。


「それで慎哉くん。辻さんのこと、どう思ってるの?」


 落ち着いた声色だった。

 まるで苛立ちを感じられないから、それが反って俺の恐怖心を煽る。


「……好き、だよ」


 優美の瞳からは逃げてしまったけど、しっかりと言葉にすることはできた。


「ふーん」


 投げやりな声。


「大好きじゃなくて?」


 顔をあげる。

 優美は笑っていなかった。


「……大好きだよ」


 今度はまっすぐ目を見て言えた。


「わたしよりも愛してる?」

「っ」


 胸に鋭利な刃物を突き立てられたかのようだった。


「どうなの? わたしよりもはーちゃんの方が好きなの?」


 心音が加速する。口から心臓が出てくるんじゃないかってくらいに。


「ねぇ答えてよ」

「…………俺は」


 流されるのは得意だ。

 流されるのは楽でいい。誰とも対立しないで済む。


 しかし、それは優美と別れたいと暗に伝えることを意味する。優美を笑顔にするという約束を破ることを意味する。


「……俺は」


 眩暈がする。吐瀉物をぶちまけそうなほどに緊張している。

 

 それでも俺は――


「……そう、だよ」


 優美のために、葉月のために、この舞台を用意してくれた透子ちゃんのために、優美をまっすぐ見つめて声を絞り出す。はっきりと決意を言葉にする。


「俺は、優美よりも葉月を愛してる。――だから別れよう」


 声にした途端、俺はようやく呪縛から解放されたような気がした。


「……そっか」


 これですべてが終わる。


 優美は俺を軽蔑して、絶縁して、そして俺は葉月を幸せにする。優美も、透子ちゃんがなにかしらの方法で幸せにしてくれる。


 透子ちゃんのことは、時がきたら葉月に打ち明けよう。きっと葉月なら、透子ちゃんのことを受け入れてくれる。


 完璧なシナリオだ。これで全員幸せになれる。


 これで全部……


「――やだ」


 真意の汲み取れない微笑を携えて、優美はそう言った。

 聞き間違えるはずのない、二文字の否定だった。


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