第36話 ありふれた日常と新しい世界
「ねぇねぇ優美ちゃん、この動画知ってる? 今、すんごいバズってるやつなんだけどさ」
「ん、どれどれ? ……あっ、これはあれだ。転びそうで転ばないやつ!」
「そう、それっ!」
優美も葉月もいない月曜日の教室には、朝から放課後までひりつくような空気が張り詰めていた。
教室はずっと静まり返っていて、不機嫌な生徒はいても楽しそうな生徒はいなくて、まるで入試会場にいるような気分だった。
「あっ、じゃあさじゃあさ、こっちの動画も知ってる?」
「優美~、もしかして学校さぼってyoutubeばっか見てたん?」
「うん。暇だったからね」
「開き直るな。……けどまぁあるよね、ずる休みしたくなっちゃうこと」
それがどうだろう。
あれからたった二日しか経っていない水曜日。
「あ、じゃあ今度、いっしょにずる休みして遠出しちゃう?」
「鴨ちゃん、急にグレちゃってどうしたの?」
「優美ちゃんは、元からこんなだよ。成績悪いし」
「そう言う加奈もいつも赤点ギリギリじゃんか」
「い、一教科だし? 優美より全然少ないし?」
「はは、わたしと競り合ってる時点で危機感覚えたほうがいいよ」
無理に繕った感じのしない自然な笑顔を振りまく優美。
その笑顔は、彼女を中心とする輪の外にいる生徒までも笑顔にしている。
だからだろう。
件の動画の話題を槍玉に挙げる生徒は、ひとりとして見受けられない。
優美も当事者のひとりであるのに、誰もあの出来事の詳細を聞こうとしない。きっとそれが、デメリットしかない行為だから。
葉月を袋叩きにすればみんな楽しいし、止めようとする生徒もいない。
けど優美の場合は、袋叩きにするよりも話題に挙げない方がメリットがある。みんな楽しくなれる。
そもそも優美を傷つけたいと思っている生徒なんて……いるにはいるんだろうけど、それはたぶんごく少数だ。いじめに発展するほどの規模ではない。だから優美を嫌っている生徒もなにも言わない。
改めて、優美はこのクラスにおけるヒエラルキーの頂点なのだと認識させられる。
みんなの理想の優美は、既にこのクラスに欠かせないものになっている。
みんなあんなにつまらなさそうにしていたのに、優美が来た途端に楽しくて仕方がないとでもいうような溌剌とした雰囲気を纏っている。
「……元気そうでよかった」
ほとんどの生徒の注目が優美に向いている今なら問題ないはずだ。
そう思って腰を持ち上げ……
「もう平気なの?」
すぐに下ろす。
「……うん、平気だよ。それよりいいの? は……わたしなんかと話してたら、富田さんも標的になっちゃうよ?」
先週まで存在していた葉月を中心とする集団は消滅し、今はふたりや三人の小規模なグループがいくらか見受けられる。
彼女たちはまるで葉月が見えていないかのように自分たちの世界に没頭し、そんな彼女たちに寂しげな目を向ける葉月の姿があまりにも不憫で。
だから、遠目に話しかける機会をうかがっていたが、俺より早く富田さんが葉月に話しかけた。
富田さんは、クラスであまり目立っていない読書好きの女の子だ。
いつもひとりでいる。たぶん、ひとりで過ごすのが好きな子なんだと思う。
そんな子が、葉月に進んで話しかけている。
俺は、遠くからふたりの会話に耳を傾ける。
「はーちゃんの方がいいと思う。わたしはそっちの方が葉月ちゃんに合ってると思うよ」
「……どうして話しかけてくれたの?」
眉をひそめる葉月に、富田さんは柔らかな微笑みを返す。
「葉月ちゃんとお話したいからだよ。それじゃ動機には不十分かな」
「はーちゃんじゃなきゃいけないってわけでもないんじゃないかな」
「うん。やっぱりそっちの方がいいね。わたしって呼ぶより、葉月ちゃんらしさが出てる」
葉月は困惑している。
富田さんは小さくため息をついて、困ったような笑みを浮かべる。
「葉月ちゃん、いつも黒板消すの手伝ってくれるよね?」
「……うん。手伝ってるけど……」
「あれってけっこう面倒でね。わたしも黒板消しなんてしたくないんだ」
クラスの役職決めのときに、率先して黒板消し係になりたいという生徒はいなかった。
最後まで残ったその役職は、その日欠席していた生徒が担うことになった。それが富田さんだ。
「みんなわたしに押しつけたくせに知らんぷり。わたしが嫌々やってることなんて知らずに、休み時間を楽しそうに過ごしてる」
優美を中心とする集団に、不満で研がれた視線を突き刺す富田さん。
気づかれないことにため息をつき、葉月に目を向けて肩を竦める。
「けど、葉月ちゃんは違った。なにも言わずに、黒板を消すのを何度も手伝ってくれた」
幼なじみだから知っている。それは葉月の癖だ。小学生の頃から、葉月は役割分担されてるわけでもないのに黒板を消すことが多々あった。
黒板消しに限ったことではない。花の水やり。プリントの配布……。
誰も気づかないようなことに葉月は気づき、なにも言わずにそれらの問題を対処する。
「それは……」
「だからその恩返し。……なんていうのは建前で、わたしは葉月ちゃんと仲良くしたいの」
くるくるサイドのおさげを指に巻きながら、照れくさそうに富田さんは微笑んだ。
「……はーちゃん、彼氏を奪っちゃうような悪い子だよ?」
「誰にだって欠点はあるよ。いちいち攻撃するなんてアホらしい。それにそれって、無理やり奪いたいくらいに矢地くんのことが好きってことでしょ? いいじゃん、まっすぐな愛で」
ぱちぱちと葉月は目をしばたたかせている。
「ほんと、みんな酷いよね。葉月ちゃんみたいないい子はそうそういないのに、たったひとつ悪いことをしただけで、葉月ちゃんは悪い子だって決めつけて傷つけようとする。欠点よりも圧倒的に長所の方が多いのに、誰も長所を見ようとしない。まぁ、おかげで葉月ちゃんと仲良くなれそうで、わたしにしてみればラッキーなんだけどね」
「……」
「あ、違うよ? 葉月ちゃんが孤立してうれしいとかそういうわけじゃなくて……」
「ありがとう。富田さん」
わたわた慌てる富田さんを、葉月はそっと抱擁する。
富田さんの方が葉月より頭ひとつぶん身長が高いから、まるで姉が妹をあやしているような構図になる。
「……いいかな。友だちって思っても」
「もちろん。これからは富田さんじゃなくて、
「っ……ありがとう、沙希菜ちゃん」
肩を小さく揺らす葉月の顔を隠すように、富田さんは葉月の頭を抱き寄せる。
葉月の嗚咽は聞こえない。
弱さも感動も、富田さんの胸のなかに溶けている。
「そういえば慎哉は知ってる?」
隣から透子ちゃんが話しかけてくる。
「辻さんと慎哉に嫌がらせすると、自分にも同じ嫌がらせが返ってくる。そんな噂がクラスの一部で立ってるみたいだよ」
「ありがとう透子ちゃん」
どうりで最近いたずらされてなかったわけだ。
面と向かって俺に嫌がらせせずとも、目にはつかない場所で陰湿な嫌がらせをしてくる生徒はいた。
上履きに画鋲が入っていたり、引き出しにゴミが入れられていたり。
そんなことが先週まではあった。
けど、今週に入ってからは一度もそういった類の嫌がらせを受けていない。
「どうしてこれはすぐ気づくかなぁ」
重々しくため息を漏らす透子ちゃん。何故だかご機嫌斜めだ。
「怪我させたりしてないよね?」
「うん。ちょっと尋問したり恐喝したりしただけ」
物理的な怪我より性質が悪いな。
「おかげで話せる子ほとんどいなくなっちゃったんだけどね」
「元から俺以外に話しかけるような間柄の子いたっけ?」
透子ちゃんはうなずく。
「慎哉のために仲良くしておいた」
「歪んだ友情なんだよなぁ」
「ま、なんの役にも立たず切り捨てる羽目になったんだけどね」
言い方がなぁ……
「……透子ちゃん、友だち作ろうよ」
「いらない。私は慎哉だけいればいい」
俺だけいればいい、か。
この先、俺が誰かと結ばれたとして、そのとき透子ちゃんはどうなるのだろう。
俺という依存先を失った透子ちゃんは、ひとりで生きていけるのだろうか。
「舞台は私が用意した。あとは慎哉が決断して幸せになるだけだよ」
柔らかく微笑みかけてくる。
「……透子ちゃんは」
「大丈夫。鴨川さんも幸せになれるようちゃんと準備してるから」
違う。それは俺の求めてる答えじゃない。
「……そっか。なら安心だな」
透子ちゃんはどうなるんだ?
俺と葉月と優美が幸せになったとして、透子ちゃんは幸せになれるのか?
そう思いつつも口にはせず、俺は透子ちゃんに微笑み返す。
優美と葉月に何度も嘘をついているからか、段々と嘘をつくのが得意になっている自分がいた。
「大丈夫。ちゃんと私も幸せになれるよう準備してるから」
「透子ちゃんに嘘はつけないな」
もっとも、透子ちゃんを騙せたことは一度もないんだけど。
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