第35話 平行線は交わらない

 早朝の閑散とした電車に揺られること二駅。 

 危うく通過してしまいそうになったのは、昨夜から一睡もしていなくて、脳がろくに機能していないからだろう。葉月の顔を眺めていたら、朝になっていた。


「ただい……ま…………」


 家に戻ると、クッションを抱きかかえたスリップ姿の透子ちゃんがぺたんと玄関に女の子座りしていた。


「……透子ちゃん?」


 今の時刻は四時三十分。普段透子ちゃんが起きる時間よりも三十分早い。


「遅すぎ」


 そう不満げに口にする透子ちゃんだが、声はひどく弱々しい。

 綺麗な瞳には赤く細い線がいくつも走り、目の下には遠目からでもわかるほどの隈ができている。


「寝てないの?」

「前に言ったはずだよ。私は慎哉がいないと安心して眠れないって」


 立ち上がろうと透子ちゃんは片膝を立てる。が、すぐにバランスを崩して倒れる。


「透子ちゃん!」


 外靴を脱ぎ捨てて、透子ちゃんの元に駆け寄る。


「……しん、や……」


 泣きそうな顔を向けてくる透子ちゃん。


 凛冽とした雰囲気を纏い、加えて行動力もあるものだから、一見したたかな子のように思えるが、透子ちゃんはすごく繊細で脆い子だ。

 すぐに体調を崩すし、俺が些細な不満をぶつければ、しょんぼりと肩を落とす。いつも強気な態度なのは、きっと弱さを隠すためなんだと思う。


「今日は学校欠席でいいよね?」


 お姫様抱っこの要領で透子ちゃんを持ち上げて、寝室へと足を運ぶ。


「うん。……ごめんね」


 透子ちゃんは目を伏せた。


「……重いよね、私」

「全然平気だよ。いつも身体鍛えてるからね」

「……そういう意味で言ったわけじゃないんだけど」


 共用の寝室の扉を開けて、透子ちゃんをそっと横たえる。

 透子ちゃんは嬉しそうな顔をしていた。


「体調悪いとかはない?」

「うん」

「お腹空いてるとか、喉乾いてるとかは?」

「今は特にないかな」

「そっか」


 ただの寝不足のようだ。

 安堵でほっと息が漏れる。


「なにか俺にできることがあったら、遠慮なく頼んでくれていいからね。学校だって、約束した手前葉月には申し訳ないけど休んだって構わないし」


 家族の一大事なのだからやむを得ない。


「えへへ。そっかぁ」


 睡眠不足で思考が鈍化しているからか、透子ちゃん普段なら絶対に見せることのないあどけない笑みを浮かべる。


「じゃあ今日一日、私だけの慎哉になってもらおうかな」

「うん。いいよ」


 学校に欠席連絡し、続けて葉月に体調が優れないから今日は学校を欠席すると連絡を入れる。葉月も仲良しごっこで股を痛めたらしく、ちょうどいいとのことだった。


「これで一通り大丈夫かな」


 スマホの電源を落として、透子ちゃんに視線を向ける。

 透子ちゃんはじっと俺を見つめている。


「それにしても珍しいね。いつもなら体調崩してもひとりで平気だからって譲らないのに」


 学校を休んで看病しようとすると怒るのだ。


「今回は風邪じゃないから。慎哉に感染することを懸念する必要がないからね」


 なるほど。筋の通った理由ではある。


「そんなこと気にしなくていいのに。俺の最優先はいつだって透子ちゃんなんだから」


 透子ちゃんは〝家族〟という、優美や葉月とは異なる大切だ。

 

「うん。私の最優先も慎哉だよ」


 布団から両手を出して、まるで抱擁を求めるように両腕を伸ばしてくる。


「寝るまで抱き締めてて」

「わかった」


 隣に寝転がり、透子ちゃんを正面から抱き締める。

 胸に伝う、とくとくと脈打つ鼓動の音が心地いい。


「気持ちいいな、慎哉の胸のなか」


 俺の肩に、透子ちゃんは頭を埋めてくる。

 

「それはなによりで」

「……おやすみ、しんや」

「おやすみ透子ちゃん」


 それからすぐに、すぅすぅ規則正しい寝息が聞こえてくる。

 その寝息が、俺を夢の世界に陥れようと誘惑してくる。


 歯向かう必要はない。

 俺は押し寄せる睡魔に身を委ねてそっと目を閉じた。


○○○


「慎哉、慎哉」


 肩を揺さぶられて目を覚ました。


「……おはよ、透子ちゃん」

「おはよう。夜ごはん、何か食べたいものはある?」

「……透子ちゃんのパンケーキ」


 一週間以上にわたって故障している俺の味覚だけど、透子ちゃんのパンケーキだけは例外的に味を感じられる。

 おいしい。もっと食べたい。今の俺が、唯一そう思える食べものだ。


「わかった。ちょっとまっててね」


 透子ちゃんは微笑んだ。

 瞳は月の光を宿したように綺麗に澄みきっていて、目の下の隈もなくなっていた。


「うん。……って夜ごはん?」


 身体を起こして壁時計を見やると、時刻は二十時を回ろうとしていた。


「……何時間寝てたんだ?」


 たしか眠りについたのは朝の五時頃のはず。こんなに長時間寝たのははじめてだ。


 透子ちゃんのパンケーキを堪能して、湯船に浸かって。起床してから二時間と経たずして、俺は布団に横たわる。

 あれだけ寝たから眠気なんて残っているはずがないと思っていたけど、不思議なことに欠伸が絶えず込み上げてくる。すぐにでも眠れそうな気がする。


「まさか一日寝て終わるなんてなぁ。……ふわぁ」

「いいんじゃない。たまにはこういう日があっても」


 正面に横たわる透子ちゃんが、どこか楽しげにいう。


「それにひさしぶりだよ。こんな早い時間に慎哉が寝室にいるなんてさ」

「言われてみればそうかも」


 この時間は、だいたい葉月の家にいる気がする。


「透子ちゃんっていつもこれくらいの時間にここにいるけど、俺がいないと眠れないんだよね?」


 基本、俺が寝床につくのは日を跨いでからだ。それまで透子ちゃんは、ひとり寂しく寝室で俺を待っているということになる。

 ……呼んでくれれば作業を切り上げるのに。


「うん。けど、いつまでもそんなんじゃいけないと思って、ひとりで寝つけるよう努力してるの」


 透子ちゃんは困ったような微笑を浮かべる。


「まぁ結果は芳しくなくて、半ば諦め気味なんだけどね」

「透子ちゃんがその調子じゃ、俺はいつまで経っても透子ちゃんから離れられないね」

「離れたいの?」


 眉根を寄せて寂しそうな顔をする。


 なんだか今日の透子ちゃんは、どこか子どもっぽく見える。

 まるで甘えているような……そんな風に見える。


「離れたくないよ」


 俺は言った。


「けど、いつかはその瞬間がやってくるんだと思う。家族っていうのはそういうものなんだろうね。離れたくても、離れたくなくても、いつかは離別のときがやってくる」


 新境地に飛び立つにあたっての円満な離別ならいい。けど、全員が全員そうとは限らない。不慮の事故によって、突然離別を余儀なくされることもある。

 ――俺や透子ちゃんのように。


「家族、ね」


 落胆したような声色だった。


「なにか癇に障ること言ったかな」

「べつに。私は慎哉の家族なんだなって」

「? 当然でしょ?」


 養子という形で父さんに引き取られたことで家族になったわけだけど、それでも家族であることには変わりない。


 透子ちゃんは大切な家族だ。

 だから、如何なる状況においても俺のなかで最優先になる。


 もう、家族が傷つく様は見たくないから。

 今の俺は、あの頃の無力な俺じゃない。


「いいんだけどね、別に」


 やっぱり不機嫌そうに言って、透子ちゃんは俺に背を向ける。


「慎哉が幸せになれば、私はそれでいいわけだし」

「俺も透子ちゃんに幸せになってほしいよ」

「今のままじゃ、その願いは叶わないね」

「どうして?」

「平行線は交わらないから」


 果たしてそれはなにを喩えているのか。


「というと?」

「おやすみ」


 やっぱり透子ちゃんはよくわからない。

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