第32話 厚雲に閉ざされた太陽

 インターフォンを鳴らすと、ゆったりとした足音が近づいてくる。

 かちゃりと、扉の鍵の開く音。三秒ほどの沈黙を挟み、扉がゆっくりと、まるでスローモーションの世界に迷い込んでしまかったのようなじれったさで開く。


「……おはよ、やっちゃん」


 扉の隙間から顔を覗かせる葉月。

 表情はどんよりと曇り、声音はかろうじて聞き取れるほどに弱々しいものだった。


 胸に痛みを覚えつつも、俺は平静を繕って微笑みかける。


「おはよう葉月。今日も体調が優れないのか?」


 葉月は制服姿だ。

 きっと登校しようとがんばったのだろう。でも、できなかった。


「……そういうやっちゃんだってずる休みしてる」


 葉月は気まずそうに視線を逸らす。


 学校を休んで正解だったなと思う。

 おそらく、葉月の限界は近い。


「お説教しにきたわけじゃないよ。ちょっとサボりたい気分になっちゃってさ」

「……嘘ばっかり」

「そうそう、駅前でお高いプリン買ってきたんだ。いっしょに食べない?」


 前に葉月が絶賛していたプリンだ。

 おいしいおいしいと口にしながら、葉月は一瞬にして三個のプリンを平らげた。


「……いいの?」


 葉月は変わらず元気が搾り取られたままだ。


「はーちゃん、なにもお利口さんなことしてないよ」

「ずっとお利口さんにしてたから貯金は充分貯まってる」

「……してないよ。はーちゃん、ずっと悪い子してたよ」

「なら、そんな悪い子と仲良くする俺も悪い子だな」

「ち、違うよっ。やっちゃんはいい子だもんっ」


 なんで自分よりも俺のために本気になれちゃうのかなぁ。


「なら葉月はいい子だ。いい子はいい子と仲良くする。俺と葉月は仲良し。よって、葉月はいい子。完璧な三段論法だろ?」

「……めちゃくちゃだなぁ」


 ようやく、葉月は折れてくれた。


「じゃあ食べよっかな」


 少しだけ頬を緩めるも、それはいつもの明るさには到底及ばない淡い微笑で。


 葉月に抱きつかれることなく玄関をくぐったのは、これがはじめてのことだった。


○○○


 プリンを食べ終えると、葉月はまるで猫が定位置に居座るように俺のあぐらの上に座ってきた。


 背中から抱き締めて頭を撫でる。

 こうでもしないと、葉月が砕けてしまう気がした。


「学校、こわいか?」

「……うん」


 右手を俺の左手に絡めてくる。


「はーちゃんね、こうなることも承知の上でやっちゃんと付き合ってたんだ」


 いつか透子ちゃんが言っていた通りだ。


「ありがとう。そこまで俺を想ってくれて」

「当然だよ。はーちゃんはやっちゃんだけいればいい。ほかになにもいらないもん」


 俺の知る葉月は、絶対にそんなことを言わない。

 みんな大切だからと言って、大切なものに序列をつけたりはしない。


 敵意に晒されたことで、葉月は狭窄的な世界に閉じこもってしまった。

 おそらく、ここから再び飛び出すのは俺が思っている以上に難しい。このままでは、葉月は俺なしで歩けなくなる。


「……ねぇやっちゃん」

「なに?」

「はーちゃん、邪魔じゃないかな?」


 俺を振り返って、今にも泣き出しそうな顔で尋ねてくる。


 ここで俺が拒絶すれば、間違いなく葉月はこわれる。

 そう確信できるくらいに、今の葉月からは元来の自信が乖離し、取り扱いを少しでも誤れば儚く散ってしまうような危うさを孕んでいる。


 ……慣れない新しい環境で必死にがんばった結果がこれかよ。

 傷ついて、弱って、持ち前の明るさを失って。


 そしてそれは、元を辿れば俺の誤った選択が導いたものだ。

 すべての責任は、俺にある。


「邪魔なわけないだろ。葉月がずっと側にいてくれたら俺は幸せだよ」


 そっと頭を撫でると、葉月は目を潤ませて俺の胸に抱きついてくる。


「ごめんっ……ごめんね、やっちゃん……!」


 それがなにに対する「ごめん」なのか、俺にはわからなかった。


 ……わかりたくなかった。


 だって、わかったところでどうしようもない。

 俺たちはもう、「ごめん」の一言ですべてが解決できないところにまで、足を踏み入れている。


「葉月が謝ることなんてないよ。俺は絶対に葉月を見捨てない。しっかり優美と別れて、正真正銘葉月だけの俺になるからさ」


 なんて、似たような言葉をいつだったか優美にかけた気がする。絶対に優美から離れたりしないって。


「……だから安心して。葉月は俺が守るよ」


 最悪の嘘つきだな、俺。


 けど、そんな最悪の嘘つきしか、この子を幸せにすることはできない。

 だから、奥歯を噛み締めて肥大する罪悪感を押し殺し、「好きだよ葉月」と何度も口にして、ひしめき合うもうひとつの想いを消滅させようと試みる。

 

「……うぇぐ、うぅ、ごめんなさいごめんなさい……っ」


 ……そんなちっぽけなことで完全に消え失せる軽い想いなら楽だったんだけどな。


「謝らなくていいって言ってるだろ。葉月はなにも悪くない。優美とも葉月とも付き合ってた俺が全部悪いんだ」


 どちらに向ける想いも本気だから。本物の愛だから。


 だから俺は、この期に及んでも、優美を想ってしまっている。

 葉月を抱きながら、優美のことを考えてしまっている。


「違う。悪いのは全部はーちゃんだもん。……全部全部、はーちゃんのせいだもんっ」

「なら、どっちも悪いってことで解決だな」


 葉月の頬を伝う涙を指の腹で拭い、俺はそっとくちづけする。


「キスよりえっちなこと、まだしてないよな?」

「っ……! やっちゃん、それって……」


 ずっと有耶無耶にしてはぐかし続けてきた。

 

 だってそれは、愛し合う者同士にしか認めらない行為だ。

 俺は葉月を手放して優美を選ぶと決めていたから、葉月のはじめてだけは奪ってはいけないと常に自分に言い聞かせてきた。


 けど、今はあの頃と状況が違う。


 俺は、優美を手放して葉月を選ぶと固く心に誓っている。今度こそその覚悟を結実させる気でいる。


「いやかな?」


 その行為は、どんなことをするよりも葉月を安心させることができるはずだ。心の底から愛してるんだって証明できるはずだ。


「やっちゃん……」


 俺は、こんな弱り切った葉月を見たくない。

 俺が見たいのは、元気いっぱいで、太陽みたいにまぶしい〝はーちゃん〟だ。


 葉月は微笑んだ。


「いやなわけないよ」


 俺の両頬を手で挟み、くちびるをゆっくりと押し当ててくる。


「しよ、仲良しごっこ」


 ――仲良しごっこ。


 その言葉がなにを示すのかなんて、今さら確認せずともわかる。

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