第30話 歪な幸福の代償
制服の汚れを払って教室に戻り、俺は目の前に広がる光景に息を呑んだ。
「かえしてよっ」
そう鋭い声をあげるのは葉月だ。
「なになに、この筆箱も大好きなやっちゃんにもらったものなの? はーちゃんっ」
にやにやとからかうように口を歪めながら葉月の筆箱をぶらぶらと揺らすのは……誰だろう。
興味がないから名前を覚えていないが、クラスメイトではある。
優美を中心とする輪のなかによく溶け込んでいる子だ。
「っ! ……かえ、してよ……お願い、だから……」
筆箱を取り返そうと必死にぴょんぴょん飛び跳ねる葉月。
葉月は背が低く、相手の女の子は背が高いから、腕を上に伸ばされたらその行動を取るしかない。
そのどこか滑稽にも見える葉月の姿を見て、ふたりを取り囲む女の子の集団がくすくすと口を嘲笑の形に歪める。
「うぅ……」
葉月の敵は目の前にいる背の高い女の子だけじゃない。
ふたりを囲むようにして群がる十人以上の女の子全員が、葉月の敵だ。
「あれっ、もしかして泣いてる? ごめんね、はーちゃん。珍しい筆箱だったから、じっくり眺めてみたくてっさ~」
と、女の子の手から筆箱が滑り落ちる。
ジッパーが空いたままだったから、中身がすべて床に転げ出た。
「あっ。ごっめん、手滑らせて落としちゃった。汚いから捨てとくね」
「っ! やめてっ! それはダメっ!」
「おっ、好感触。このシャーペンは、やっちゃんからの贈りものとみた」
その通りだ。
あのシャーペンは葉月がはじめてスタバで注文できた記念に、俺がプレゼントしたものだ。勉強家の葉月の役に立つよう、長時間握っても手が痛くならないグリップのついたものを選んだ。
俺と葉月の目に見える想い出だ。
「やめてよっ」
「ははは、必死になっちゃってはーちゃんは可愛いなぁ。……ほら、取ってこい」
女の子は、シャーペンを――俺と葉月の想い出をゴミ箱に投げ捨てた。
「あぁっ……!」
ゴミ箱に埋もれた想い出の欠片を、葉月は汚れることを厭わず必死に探す。
シャーペンを取り出すと、泣きそうだった顔が一転してほころぶ。
「よかったぁ……」
「……」
口のなかが鉄の味に染まっていた。
「おっ、そこにいるのは優美と影で付き合いながら、はーちゃんに浮気したやっちゃんじゃあないですかぁ~」
ようやく俺が教室の入り口にいることに気づいたらしい。
学校の裏掲示板の影響力。
そして、優美が集める多大な信望を俺は甘く見ていた。
「やっちゃん……」
両手で握ったシャーペンを胸に押しあて俺を見つめる葉月。
膝頭は埃で灰色に染まり、瞳からは傷跡が絶えず零れ落ちている。
見れば、ゴミ箱のなかには見慣れたノートもあった。
葉月が日記を取っているノートだ。
「……っ!」
ぱっと見て十人以上の女の子が浮かべるのは、愉悦に浸るような笑み。男子生徒の大多数は、この惨状が見えていないかのようにだんまりを決め込み、残りの男子生徒は、俺に怨嗟のまなざしを向けている。おそらく、優美か葉月に恋していた男子生徒だろう。
「……」
ちらと透子ちゃんを見やる。うなずく。
瞬間、俺のなかのなにかがぷちんと切れた。
「平塚くんから聞いたんだけどさぁ、優美に別れるようそそのかしたってほんとなの?」
誰だよお前。
「あぁ、ほんとだよ」
彼女は今、とても清々しい気分でいるんだと思う。
人間とはそういう生きものだ。
弱者を嬲り、自分の方が優れていると驕り、愉悦に浸る。
それが人間の本性。
俺のよく知る人間本来の気性。
……落ちつけ。ここで暴力に走ってもなんの解決にもならないだろ。
「で、優美を平塚くんから奪っておきながら、葉月ちゃ……違う違う。はーちゃんとも付き合ってたんだ?」
「葉月のはーちゃん呼びをバカにするのやめろよ」
冷たく言い放って凄むと、女の子は目に見えてたじろいだ。
「……さ、さすがだねぇ。愛してるっていうだけあるよ」
「あぁ、そうだ。俺は葉月を愛してる」
不安げな顔で俺を見つめる葉月に微笑みを向ける。
大丈夫。葉月は俺がなんとしても守るから。
葉月から女の子に視線を転じ、俺は言った。
「だから、葉月を傷つけるやつは許さない」
「ひっ……」
とすんと、女の子が尻餅をつく。
その女の子を無視して、少し離れた場所からこちらを傍観する葉月を取り囲んでいた女の子たちに目をやる。
「葉月を泣かせたやつ、黙って挙手しろ」
黒板を殴りつける。
「正直に白状したなら、一発殴るだけで許してやる」
しんと教室が静まり返る。誰も手を上げない。
男とか女とか知ったことではない。俺は本気で葉月を傷つけるすべてを駆逐するつもりでいる。
俺対その他の喧嘩になっても俺は負けない。何故なら俺には、かつて一世を風靡した格闘家である父親の遺伝子が流れているから。
恵まれた体格。鍛え抜かれた筋肉。素人が俺に喧嘩で勝つことはまずできない。
けど、拳ひとつですべてを解決できるのはマンガの世界だけだ。
ここで俺が一喝することで、おそらく葉月に対する直接的な暴力は沈静化できる。
けど、物を隠す、陰での悪口といった、じっとりした嫌がらせを根絶やしにすることはできないだろうし、むしろ俺が目立ったことで拍車がかかる可能性すらある。いじめとはそういうものだ。
そしてなにより痛手なのは、この出来事が原因で葉月が孤立してしまったことだろう。
こつこつ努力し築き上げられた葉月の交友関係。そのすべてが瓦解した。
葉月の不貞行為を知ってなお、友だちであり続けようと思う子がいるだろうか。
きっといない。葉月はまた、ひとりぼっちの世界に戻ってしまった。
「今後、葉月になにかしたら容赦しない。なにかするなら俺にしろ。いいな?」
返事はない。
けど、誰もが理解したはずだ。葉月を傷つけてもデメリットしかないって。
これが今の俺にできる精一杯だ。
あとは、俺が常に葉月の側で傷を癒すしかない。
「大丈夫か葉月」
「やっちゃぁん……」
葉月が泣きついてくる。
そんな弱りきった葉月を抱き締め、俺はささやく。
「大丈夫。もう大丈夫だから……」
ふたりぼっちの世界なら、誰も俺たちの邪魔をしない。
周りに何人いようとも、俺たちが俺たちしか意識しなければ、ふたりぼっちの世界の完成だ。
○○○
俺に悪さを仕掛けてくる生徒はいない。返り討ちに遭うのがこわいからだろう。
同じ理由で、俺が教室にいる限りは、葉月に目に見えた嫌がらせがされることはない。
けれど、選択科目だったり、体育だったりと、俺の注意が行き届かない瞬間というのが、一日のなかで何度か訪れる。
そのたびに葉月は傷ついた。それでも葉月はへーきへーきと微笑んでいた。力ない笑みだった。
翌日、葉月は学校を休んだ。微熱があるとのことだった。
その翌日も、葉月は学校を休んだ。熱は引いたものの、強い倦怠感があるらしい。
土曜日、家に見舞いに行くと、そこにはいつもと変わらない葉月がいた。
熱も倦怠感もなく清々しい気分とのことで、俺たちは特に目的もなく街を歩いた。
お昼をファストフード店で軽く済ませて、噴水の音が心地いい公園を歩いて、陽が暮れてきたところで、俺は葉月を家に送り届けて家に帰った。
その日一日、葉月はずっと楽しそうな笑顔を浮かべていた。
そして迎えた月曜日。
――葉月の席も、優美の席も、空席のままだった。
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