第27話 この想いを君だけに

「え?」


 頭がまっしろになった。


 言い訳なんてまるで浮かばない。


 葉月が俺の鎖骨あたりにキスする音だけが、静まり返った家庭科室に響いている。


 ……葉月がキスしている? この状況で?


 そんな疑問が浮かんだ直後、葉月は俺の頬を両手で挟んで、俺のくちびるを舌でぺろぺろ舐めてきた。


「んれろぉ、やっちゃんっ、れろれろ、やっちゃんっ……!」



 葉月の癖だ。「開けて開けて」とおねだりするように俺のくちびるを舐めて、俺が口を開いてから、薄く短い舌で甲斐甲斐しく俺に快楽をもたらすために奉仕してくるのだ。


 いつもの流れだ。

 だから知っている。この先に快楽が待っているって。


「……」


 優美は絶句している。


 当然だ。

 彼氏がクラスにいる別の女の子とキスしている現場を――自分以外の女の子と愛しあっている現場を、たった今目撃しているのだから。


「ねぇ、いつもみたいにえっちなちゅーしようよ」


 葉月がぺろっと、俺のくちびるを舐めてくる。


「せっかくお客さんもいることだし」


 優美を見やり、葉月は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


 その表情を見て俺は確信した。

 おそらくこれは、葉月のシナリオ通りだ。


 葉月が俺を独占するもっとも簡単な方法。

 それは俺と優美の関係を破綻させることだ。


 なぜ家庭科室なのかと思っていたけど、思えば単純なことだった。


 優美は家庭科係。今日の五限に家庭基礎の授業があったから、授業終わりまでに提出できなかった生徒のプリントを放課後に家庭科室まで運んでこなくてはならない。

 といっても、大多数の生徒は授業中にプリントを仕上げるため、優美がこの仕事に着手している姿はまず見ない。


 けど、今日はひとりだけ提出が遅れた生徒がいた。


 ――葉月だ。


「……葉月、お前……」


 こわれているのは葉月も同じだった。


 もう、きれいな葉月はいない。

 この歪んだ関係が、選択を後回しにしつづけて二の足を踏み続けた俺の弱さが、清く優しく正しい葉月をこわした。大切な女の子を狂わせた。


「言ったでしょ。やっちゃんの前では悪い子だって」


 わざとらしく音を立ててキスしてくる。おそらく、優美に見せつけるために。


 ――やっちゃんは、はーちゃんのものだから。


 そう行動で伝えるように、葉月は何度も何度もキスしてくる。


「はーちゃん、やっちゃんのことだいすきだよ」


 嫣然と微笑んで葉月は言う。


「やっちゃんは? はーちゃんのことすき?」

「……」


 葉月は間違いなく、俺と優美の恋人関係に終止符を打とうとしている。

 俺を自分ひとりで独占しようとしている。


 優美を見やる。

 優美は現実から目を背けていなかった。


「……嘘、だよね?」


 胸が悲鳴をあげた。


「慎哉くんは……慎哉くんは、わたしだけの慎哉くん、だよね?」


 堪らず目を逸らす。


「……なんで、黙っちゃうかな」


 目に見えて、優美の顔が憂いを帯びていく。

 眉が八の字になって、瞳は薄いしずくの膜に覆われて、くちびるはぷるぷると震えて、悲しみの色に染まっていく。


 優美は俺だけは嘘をつかないと信じていた。

 その唯一信じていた恋人に、優美はたった今、裏切られた。


 それも、想像できないほどに最悪の形で。


「どうなのやっちゃん。はーちゃんのこときらいなの?」


 甘い猫撫で声が鼓膜を撫でる。


「……」


 もう、どうしようもできない。

 どちらも傷つけずに場を収めることは不可能だ。


 となれば俺は――


「……ごめん」


 ぽつりとつぶやき――俺は葉月のくちびるを奪った。


「んんっ……!」


 首と腰に腕を回して小さな身体を強く抱き寄せ、舌を口のなかに入れて蹂躙する。


「んちゅぅ、んふぅ、んっ、んぁっ、んぅっ」

「……嘘、だよね?」


 葉月が苦しそうな顔を見せたところで舌を抜き出し、俺は葉月に対してはじめてその言葉を口にする。


「愛してるよ、葉月」


 好き、大好き、そう言ったことは何度もあったが、愛してるだけは絶対に葉月に言わないようにしていた。


「ぁ、あぁっ、嘘だよ……信じない信じない信じないっ!」


 口にしたら覚悟が揺らいでしまいそうだったから。


「へへっ、ようやく愛してるって言ってくれた」

「ずっと前から思ってたよ。口にしてなかっただけだ」


 吸い上げるように首筋にくちづけしながら、カッターシャツ越しに胸をこねるように揉みしだく。


「あっ、やっちゃ……んっ! へへ、もっとしていいよ?」

「やめてよ……もう、やめてっ……」


 間歇に鼓膜を揺らす葉月の嬌声が、俺の意識をとかしていく。

 視界が徐々に狭まっていく。


「もう、わかったから! 全部全部、わかったからっ! だから、もうやめてよ……苦しいよ……痛いよ……」


 視界にはもう、葉月しか映っていない。葉月しか映せない。


「愛してるよ、葉月」

「あああああああぁぁぁぁぁぁっっ!!」


 ……葉月しか、映せない。


 視界の端でなにかが動いた気がするのは気のせいだ。


 ……気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。


 そう何度も自分に言い聞かせて、平静を保つ。


 現実を直視したら、俺は間違いなく俺のままではいられなくなるから、俺はふたりだけの――愛する彼女とふたりだけの、ふたりぼっちの世界に心酔する。


「……んっ、いいんだよ、もっと強く揉んでも」

「俺がやさしく愛でたいんだ。だめか?」

「ううん。やっちゃんの意思が最優先だから、はーちゃんはそれで構わないよ」


 首筋からくちびるを離すと、そこにはしっかりキスマークができていた。


 葉月が俺のものになった証。俺だけの葉月になった証。


「……やりすぎちゃったかな」


 葉月が家庭科室の入り口を見やると、そこに優美の姿はなかった。

 代わりにびりびりに破かれたプリントが一枚だけ落ちている。


「仕返しされたらどうしよ」


 一枚だけ。

 それが誰のプリントなのか、彼女をよく知る俺は、確認せずともわかってしまう。


「大丈夫。俺が守るよ」


 小さな身体をを抱き締めて俺は言った。


「今日から俺は葉月だけの彼氏だ」


 その後、家庭科室を出る前に破られたプリントを拾い集めると、やっぱりそれは予期した通りの人物のものだった。


「……ごめんな」


 どこまでいっても優美は優美だ。


 破られたプリントは、優美のものだった。





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