第26話 贖罪
六月も折り返し地点に差し掛かり、曇りや雨の日が一週間のほとんどを席巻するようになりはじめた。
「……んちゅぅ。ちゅぴ、ちゅぷ……はぁはぁ、んむっ……!」
窓を打つ激しい雨の音はほとんど聞こえない。
葉月がくちびるを離すと、唾液が糸を引いて滴り落ちた。
「……へへ、雨が降るとますますいけないことしてる感じがして気持ちいいね」
放課後、葉月が傘を忘れてしまったらしいので、俺たちは家庭科室で雨脚が弱まるのを待っていた。
……めちゃくちゃな理由だな。
けど、なんだっていい。大切なのは、今日もがんばってクラスメイトに話しかけた葉月にご褒美を与えることだ。
どうして家庭科室にいるのかとか、葉月のリュックから折り畳み傘の取って部分が覗いてるだとか、そんな野暮なことを指摘してはいけない。
「葉月も悪い子になっちゃったな」
「はーちゃんが悪い子になるのは、やっちゃんの前でだけだよ」
気づけば、葉月はクラス内における優美とは別の派閥の中心的な立ち位置にまで登り詰めていた。
みんなからは「葉月ちゃん」と呼ばれている。今となっては、「辻さん」なんて余所余所しい呼び方をするクラスメイトの方が少ないくらいだ。
そんな葉月だけど、みんなの前では常に自分のことを「わたし」と呼んでいる。
葉月が自分のことを「はーちゃん」と呼ぶのは、決まって俺の前でだけだ。
俺だけが、素の辻葉月を知っている。
俺だけしか、素の辻葉月を知らない。
そういった見方をすれば、葉月に真の友だちと呼べる相手は未だにできていないのかもしれない。
……まぁ、ありのままの自分を常に晒しているひとなんて滅多にいないからそれが当然なのかな。
「そういえば今日の昼休み、クラスの男子に呼び出されてなかった?」
いつものように隣の棟の空き教室に移動しようとした際に、偶然その瞬間が目についた。
「うん。呼ばれたよ」
そういう葉月は、どことなくうれしそうだ。
「……そっか」
「え、ここまで聞いといて続きは聞かないの?」
「なんとなく察しがついたから」
告白されたのだろう。
葉月は元気溌剌で可愛げがある。実際、葉月のことが好きだと話している男子生徒も少なくない。その話は、何故だかやたらと耳に入ってくる。
……葉月がひとりぼっちのときは空気扱いしてたくせして、なんだよ今さらになって好きって。だったら最初から助けてやれよ。
「そろそろ潮時だな」
と、俺のやり場のない苛立ちは置いといて。
葉月は本来の自分を取り戻した。友だちの輪の中心で伸び伸びと過ごし、多くの男子生徒から好意を向けられるほどに魅力的な子になった。
もう、俺がご褒美を与える必要はない。
さっきのキスが、俺が葉月に与える最後のご褒美だ。
この瞬間、俺はひとつの贖罪を満了した。
「潮時?」
こくりと葉月が首を傾げる。
改めて、正面の椅子に座る葉月をじっくり眺める。
高い位置で結ばれたポニーテール。くりくりしたつぶらな瞳は、リスやコアラといった愛らしい小動物を彷彿とさせる。
鼻は小さく、結ばれた薄桃色のくちびるは、梅雨時に降り注ぐ微かな光でもわかるほどにつややかだ。
「やっちゃん?」
胸の主張は控えめだ。けどそれは葉月らしく、小さいながらに確かな弾力を持っていることを俺は知っている。
腕も脚も細く引き締まり、けれど筋肉はしっかりついている。田舎育ちの特権だろう。遊ぶとなれば外遊びしかなかったから、その名残りが今でも色濃く残っている。
「……ほんと、かわいいな葉月は」
葉月は大きく目を見開いた。
「きゅ、急だなぁ……えへへ」
面はゆそうに微笑んでいる。
葉月は素直な子だから、感情を隠すことができない。
「葉月。大事な話があるんだ」
「大事な話?」
俺はうなずく。
覚悟はできていた。
「別れよう、俺たち」
前に葉月と交わした約束を破る行為であるにもかかわらず、その提案は一切の葛藤なしに切り出すことができた。
葉月が大切だからだろう。大切だから、間違った道を進んでいる葉月を正しい道に送り届けなくてはいけない。
喩えここで葉月との関係が崩れようとも。
「…………え?」
呆然とする葉月は、話が呑み込めないといった風だ。
「このままじゃダメだって、葉月もわかってるだろ?」
やさしく問いかける。
葉月は賢い子だから、俺が皆まで言わずとも、どうしてこの結論に至ったのか理解してくれるはずだ。
「……でも」
「葉月が嫌いになったわけじゃないよ。葉月が大切で好きだから、俺たちは別れなくちゃいけないんだ」
葉月の小さな手を、いつかのショッピングモールでのデートのときのように優しく包み込む。
「葉月、お前はすごいやつだ。俺なんか話にならないくらい、すごいやつなんだよ」
心から思っていることだから、俺は淀まず言葉を続けられる。
「だから、葉月は俺から離れて新しい世界に飛び込むべきなんだ。そうすればきっと、俺より立派なやつに出逢える。二股かけてるようなクズ男に依存しちゃダメだ」
「やっちゃんはクズなんかじゃないっ!」
悲鳴にも近い鋭い声をあげて、葉月は俺を強く睨みつけてくる。
涙に濡れていて、けれども怒りに満ちた強い瞳。
ぶつけられる敵愾心。明確な拒絶……
「あ……」
その直後、俺のなかで怯懦が蠢きはじめる。
「悪いのははーちゃんだもんっ! なんでやっちゃんはそういつも自分ばっか責めるのっ!?」
誰かを怒らせたのは、これがはじめてのことだった。
この瞬間をずっと恐れて、対立しないよう同調に徹してきた。
けど、今回は葉月のためだから、間違っていることを間違っていると指摘すると決めていた。俺たちのしていることは間違っていることだから、反論することが葉月を幸せに導くことに直結するから。
「やっちゃんはすごいんだもんっ!」
葉月の激情は止まらない。
「鴨川さんのほうが好きだからって理由なら喜んで別れたけど……こんな別れ方は絶対に認めないっ! はーちゃんはそんな見捨てるような真似しないっ!」
「葉月……」
うれしかった。
けれど、否定しなければいけない場面だった。
俺なんて全然すごくない。
そう自分を卑下すれば、葉月はますます激昂するに違いない。葉月は俺を強く想ってくれているから、俺が俺を傷つけることを葉月は許さない。
ならば、反論しつづけて葉月の心を折ればいい。
――そうわかっていてもできない。
優美が好きなんだ。そう一言反論するだけですべては解決するのに、その一言が、どうしても紡ぎ出せない。喉元まで出かかっているのに言葉にできない。
葉月が好きだから。葉月を誰にも手渡したくないから。
そんな俺の身勝手なエゴが、どうしようもない想いが、葉月を抱き締めるという形になって表出する。
「……ごめん。ごめんな、葉月」
「謝ることないよ。だって、こうなることを望んだのははーちゃんだもん」
俺の首に腕を回し、葉月がゆっくりくちびるを重ねてくる。
「ごめんね、やっちゃん」
やさしいキスだ。まるで俺の罪を許すかのようなキス。
「でもやっぱり……はーちゃんはやっちゃんの一番でいたいから」
俺の背中をさすりながら、首筋をちゅるちゅる吸い上げてくる。
その時、家庭科室のドアが開いた。
「失礼しま……」
――優美だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます