第25話 ブランケット症候群

 優美がぺらぺらとページをめくる。俺は優美の肩に顎を乗せ、腹部に回した腕を少し引き寄せて、ページを目で追う。

 俺を気遣っているからか、ページがめくられる速度はかなりゆったりだ。


「速くないかな?」

「ちゃんと読めてるよ。ありがとう俺に合わせてくれて」

「ならよかった」


 優美は微笑んだ。


「あ、このマンガ慎哉くん読んでないやつだよね?」


 ひとりの男子高校生が、既に彼女がいるのに別の女の子と付き合うという歪んだ恋愛ものの作品だ。


「前までは読んでたんだけど……胸が痛くなっちゃってさ」


 主人公が自分に投影できてしまうから、主人公の苦悶がダイレクトに伝わってくるのだ。


「やっぱり慎哉くんは優しいね」


 そんな理由で俺がこの作品を忌避しているだなんて、優美は夢にも思っていないのだろう。


「大丈夫。わたしたちはこの作品みたいなことにはならないよ」

「……そうだね」


 胸が、痛い。


「けど慎哉くんが読んでないならとりあえず飛ばしちゃおうかなぁ」

「気にしないで。優美は読みたいんでしょ」

「とはいっても、慎哉くんが最優先だもん。……よし、パス!」

「……ごめんな」


 なにに対してのごめんなのかは、俺にもよくわからなかった。


 楽しい時間が流れていく。

 同じ時間を共有して、同じものを共有して。


 優美の笑顔が、楽しそうな姿が、俺を喜ばせて、苦しませる。


 数時間前に葉月と学校でキスして興奮してた俺が、なんでこんな幸福を堪能してるんだよ。……最低だろ俺。


「慎哉くん、全然お菓子食べてないね。あ、もしかしてわたし邪魔?」

「そんなことないよ。ただ食欲がないってだけで」

「え、大丈夫? もしかして体調悪かったりする?」


 眉根を寄せた優美が俺の額に、こつんと額を当ててくる。


「……熱はなさそうだね」

「誰も体調が悪いとは言ってないよ。夕飯に備えてお腹を空かせてるんだ。俺、少食だから」

「あ、そういうこと」


 優美は強張った頬をやわらげた。


 俺の嘘を、当然のように信じてくれるその純真さが、愛しくて。

 そして、その愛しい純真さが俺の逃げ道になっているという事実に、逃げ道にしている自分が気持ち悪くて仕方ない。吐き気がする。


「へへ、わたし、お菓子は別腹な女の子だから」

「なのにこの体型を維持できるんだから、天は二物を与えずってのは嘘っぱちだな」

「……えと、どういうこと?」


 優美は現代文が苦手だ。それどころか、勉強全般が苦手だ。

 そんな欠点も、堪らなく愛しい。


「優美がどうしようもないほど可愛いってことだ」


 抱き締める腕に力を込める。

 この想いを、優美ひとりだけに注げるように。


「好きだよ優美」

「わたしは大好きだよ」

「俺はもっと好きだ」

「はは、慎哉くんがそんなバカップルみたいなこと言い出すなんて珍しいなぁ」


 それから、マンガを読んで、なんでもないことを話して、日が暮れてきた頃に俺たちは別れた。


 その帰りに、俺は葉月の家に寄った。今日、優美としたことを話して、いっしょにお風呂に入って、いっしょに夕飯を食べた。


 それから、マンガを読んで、なんでもないことを話して、十時ちょっと前に俺たちは別れた。


「……はは」


 帰り道、無意識に乾いた笑みが漏れ出た。

 視界はぼやけ、両頬をあたたかいしずくが滴り落ちていた。


○○○


 十時を少し過ぎた頃に家に着いた。

 軽くシャワーを浴びてから三時間ほど勉強に精を出し、眠気でテキストがぼやけだしけてきたところで寝室に向かう。


「遅すぎ」


 扉を開くと同時に不満の声が飛んできた。

 シーリングライトの仄かな光を吸い込んだ透子ちゃんの瞳は、いつも以上に鋭さを持っているように見える。


「もう二時近いよ? 朝、大丈夫?」


 透子ちゃんはいつも五時に起床して、俺と自分用の弁当を作る。高校に進学してから変わらない透子ちゃんのルーチンワークだ。


「心配するならもっと早く帰ってきてよ」


 布団に横たわる。

 正面にいる透子ちゃんは、不機嫌そうに頬を膨らませている。


「努力はしてる」

「慎哉のせいで、ここ最近寝不足なんだけど」

「土日はともかく、今日は与り知らないんだけど」

「私、慎哉が側にいてくれないと安心して眠れないんだよ」

「まるでブランケット症候群だね」


 毛布やぬいぐるみといったお気に入りのものが手元にないと落ちつかないという、多く子どもに見られる症状だ。


「そう。だから慎哉は私に欠かせないの」


 冗談で言ったつもりが肯定されてしまった。


「……お願い。これからはもっと早く帰ってきて」


 いやに切実な声色だった。


「善処する」

「言い方変えただけじゃん」


 くすくす微笑むと、透子ちゃんは寝返りを打って俺に背を向ける。


「おやすみ慎哉」

「おやすみ透子ちゃん」


 それから十秒と経たずして、隣からすぅすぅ寝息が運ばれてきた。


 俺が側にいないと安心して眠れない。

 透子ちゃんのその言葉に、嘘はないのかもしれない。


 だって俺も、透子ちゃんが側にいると安心して眠ることができるから。

 ひとりじゃこわくて、眠れなくなっているから。

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