第19話 拓けた世界に一歩踏み出して

 インターフォンを鳴らすと、どたどた元気な足音に続けて勢いよく扉が開かれた。


「おっはよー! や~っちゃんっ!」


 そして、家主が流れるように抱きついてくるのがいつもの流れだ。


 すりすりくんくんしてくる葉月を見ていると、優美の時とはまた違った安心感を覚える。

 吸い付けられるように伸びた手で葉月の頭を撫でると、へへっとうれしそうな声を上げた。


「おはよう葉月。そろそろこのバカップルっぽいお約束やめないか?」

「ヤ~だ。はーちゃん、やっちゃん大好きだもんっ」


 ぎゅ~と、抱き締めてくる。


「理由になってないんだよなぁ……けどまぁ葉月がしたいならいっか」

「えへへ。はーちゃんがダメ人間になったら、甘々にしたやっちゃんが責任取らなきゃだね」

「そうはならないだろうな。葉月は根が真面目だから」

「やだなぁ~、褒めてもなんもでないぞ~」


 と言いつつも、既に頬を擦りつけるたびに揺れる髪から漂うフローラルの香りが俺に幸福を運んでいるんだけど……いや、それだけじゃないな。


 葉月のスキンシップ全般が、俺を幸せな気持ちにしてくれる。

 だから、俺は引っ付いてくる葉月を引きはがすどころか歓迎してしまうのだろう。


 玄関でじゃれついたところで、俺たちは駅に足を向ける。


 今日の目的地は、昨日優美と行ったショッピングモールだ。

 昨夜、優美がお風呂に入っているあいだに、優美と行った場所、したことを伝えた時点でこうなることがわかっていたので、面倒だとか味気ないだとかそういった不満は浮かばない。むしろ「朝から家でずっといちゃいちゃしようよっ」と誘われるより遥かにマシだ。

 昨夜……というより早朝の疲労が残っているので、そんな状態で一日性的交わりに傾倒したら明日倦怠感で学校を欠席しかねない。


 それにこれは良い機会でもある。


「どうした葉月。優美のしたことをなぞるんだろ?」

「う、うん……そのつもりではあるんだけど……」


 ボーダー柄のデニムの上から紺色のノースリーブワンピースを羽織り、靴はシンプルな白色のローカットスニーカー。

 剥きだしのくるぶしが、如何にも元気快活な葉月らしい。


 しかし今の葉月からは、普段の元気快活とは真反対の、箱入り令嬢のような印象を受ける。


 弱々しい笑顔。少し曲がった背筋。

 まるではじめての外出に臆するお姫様のようだ。


「ストロベリーフラッペ飲んでみたいって、電車で言ってなかったっけ?」

「……飲みたいよ。でもさ……」


 俯いた視線を持ち上げた先にあるのは、店の外まで伸びる長蛇の列だ。昨日、優美と訪れたときはもっと空いてたはずだけど、ここのスタバは土曜日よりも日曜日の方が混雑するらしい。


「俺は何分並んでも構わないよ。この後予定が控えてるわけでもあるまいし」

「……」


 なにか不都合な理由を探しているのだろう。葉月は黙り込んでしまう。


 田舎にいた頃、葉月はみんなの中心にいた。

 俺だけじゃない。同世代の子はみんな葉月のことを好いていた。


 葉月は愛嬌があって、人気者で、頭がよくて。

 喩えるならヒーローみたいな存在だった。

 母さんが亡くなって閉じこもった俺に手を伸ばしてくれたのは葉月だけだった。


 そんな葉月でも、環境の変化ひとつでこんなに弱くなってしまう。


 自分なんかにスタバなんておこがましい。

 口ごもりながら注文したら、後ろのひとに迷惑かけちゃわないかな。


 葉月は優しい子だから、そんな理由で二の足を踏んでるんだと思う。


 環境の変化に伴う自己肯定感の欠如。

 これが、上京してから葉月がうまくいっていない大きな原因だ。


 簡単に言ってしまえば、カルチャーショック。

 山に囲まれた田舎街で閉鎖的に完結していた世界が突如広がり、それに適応することにまだ脳が追いついていないのだろう。


 葉月の気持ちはよくわかる。俺も四年前に同じ経験をしているから。


 俺は透子ちゃんと支え合うことで、なんとかその時期を乗り越えることができた。

 けれど葉月は親元を離れてひとり暮らし。転校してきてから一か月近く経つというのに、未だに葉月にはいつも話す特定の一個人がいない。俺という例外を除いて。


 大きな決断を迫られたときに断れないという俺の弱さが、葉月の告白を聞き入れようと決意する上で大部分を占めたことは間違いない。

 が、仮にその弱さがなかったとしても、俺は葉月の告白を聞き入れていたと思う。


 だって、放っておけるわけがない。


 自分がいちばん苦しい時期に誰よりも寄り添ってくれた女の子がこんなにも弱ってるんだぞ? 

 誰にも頼れず、ひとり寂しく肩を縮こまらせて、ぷるぷる震えてるんだぞ?


 それを放っておくなんて……できるわけないだろ。


 葉月の手をそっと握り、片方の膝頭を地面につけて葉月を下から見上げる。


「やっちゃん?」


 そうすれば視線は自ずと絡まる。不安そうな瞳だけど、その瞳は確実に俺を捉えている。


 そうだ。俺を見るんだ。

 下を向いて立ち止まっちゃいけない。

 知らなくてこわい新しい世界を見るんだ。

 大丈夫。葉月ならできる。そこまで俺が連れていく。

 俺の知ってるはーちゃんは、明るくて強い子なんだ。


「がんばろう葉月。俺がついてるから」


 もう片方の手で葉月の手の甲を握り、両手で葉月の小さな手を包み込む。


「あっ……」


 強く握ったら壊れてしまいそうな、繊細でやわらかくてあたたかな手。

 この手が、昔俺を救ってくれたんだよな。


「歩いたら歩いた分だけ、未来が輝くんだろ?」

「っ! やっちゃん、今のって……」


 目を見開く葉月に、俺は柔らかく微笑みかける。


 そうだよ葉月。今の言葉は俺の人生でどんな言葉よりも胸に響いた言葉だから、今も鮮明に覚えてるんだ。


 葉月の手を片手で握ったまま立ち上がり、行列に向けて一歩踏み出す。

 俺がほとんど引っ張ることなく、葉月の足は前に進んだ。


「やっちゃん、その……はーちゃん、こういうカフェはじめてだからさ、その……困ったら助けてくれない、かな?」

「言われなくてもそのつもりだよ」


 それが俺にできる恩返しのひとつだから。


 葉月と秘密裏に関係を築いていたことを明かす。それが優美にあてる贖罪。

 そして、俺の弱さが原因で停滞してしまった葉月の背中を押すのが、葉月にあてる贖罪だ。


 葉月が本来の自分を取り戻したそのとき、俺はひとつの贖罪を満了する。

 それは同時に、葉月との関係に終止符を打つことを意味する。


 優美との関係がどうなるかはわからない。

 恋人関係が継続するか、失望されて絶縁するか。


 いずれにせよ、葉月とは一度別れなくてはならない。

 この歪んだ関係は、葉月の足を引っ張るものでしかないから。


「お待たせいたしました。ストロベリーフラペチーノです」

「は、はいっ。あ、ありがとうございますっ!」

「またのご来店をお待ちしております」


 恭しく店員さんに頭を下げると、葉月は俺を見て得意げな笑みを浮かべた。


「案外、簡単なもんだねっ!」

「うん。難しいのは、最初の一歩を踏み出す勇気だからね」


 これから葉月の世界はどんどん拓けていく。どんどん俺の知らない世界に羽ばたいていく。


 それでいい。それがいいんだ。

 俺は葉月にそうあってほしい。


 今浮かべている笑顔を俺以外に振りまけるその日がくるまで、俺は葉月の彼氏であり続けよう。


 そう思った途端、ずっと胸に感じていた閉塞感が、少しだけ和らいだ気がした。

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