第15話 絶対に離れない
夕飯を食べて、お風呂を済ませて、気づけば既に十一時手前だ。
「すぅ、すぅ……」
クッションに顔を埋めて、優美は小さな寝息を立てている。
何時間もなんでもない話をして過ごしていたが、そろそろ潮時だろう。
「……」
それにしても、その体勢は反則じゃないか。
可愛い優美が可愛い体勢をする姿が可愛すぎて直視できない。
「そ、そろそろ寝よっか」
ぱちっと優美の目が開く。
「……ま、まだ全然平気だよ!」
きゅっと裾を掴み、上目遣いに俺を見上げてくる。
「もっとお話ししようよぉ」
まるでおもちゃを取り上げられた子供のよう。優美は誰かと話すのが好きだから、できるだけ長くその時間に留まりたいのだろう。
「寝転がってても話はできるよ」
「でも、こうやって目と目を見て話すことは座ってなきゃできないよ?」
目と目を見て話す。
それはあたりまえで、すごく難しいことだ。
常にその意識で会話に望んでいる優美はやっぱりいい子だと思う。
まだ少し湿っているのか、いつにも増して輝かしい光沢を放つ濡羽色のストレートヘアをぽんぽん撫でて、潤んだ瞳でこちらを見つめる自慢の彼女に微笑みかける。
「優美が眠るまで目を逸らさない。それでどう?」
「……ほんとにそうしてくれるの?」
甘い猫撫で声に情欲が昂りそうになる。が、優美が望んでいない以上、その衝動は胸の奥に追いやらなければならない。
優美が気負わず素のままで接することのできる相手に。
優美が自然体のまま、笑顔で楽しく過ごせることが、ほかのなにを差し置いて優先されることだから。
その望みを叶えるために、俺は優美を奪ったのだから。
「うん。約束する」
うなずくと、優美はとろんとした瞳をへにゃっとうれしそうに細めた。
「へへ、今日はいいことばっかだぁ~」
「日頃の行いがいいからだよ。優美はいつもがんばってるから」
俺には素の自分を殺して、周囲の期待に応えるための自分を演じ続けることなんてできない。
「じゃあ寝ようか」
「うん」
○○○
いつも隣の寝室の布団で透子ちゃんと寝ているから、自室にあるベッドのふかふかした感触が新鮮に感じる。
慣れない匂いだけどその香りは心地よくて。けどそれは当然で。というのも、俺の鼻腔を刺激しているのは布団の香りなんかじゃなくて、優美の匂いだから。
「お、思ったより恥ずかしいね……」
拳ひとつ分ほど離れた場所に優美の顔がある。シーリングライトの仄かな光のおかげで、羞恥に染まった優美の顔がはっきり見える。
……こんなの平静を保てるわけがない。
目から鼻あたりに少し焦点をずらす。これならきっと気づかれないだろう。
「背中向けようか?」
「だめ。……ぜったい、だめ」
ブランケットの下で、きゅっと俺の手を二本の指でつまんでくる。
本人的には裾を掴むつもりだったのか、ぴくっと肩を跳ね上げた優美は、けれども手を離すことなく、それどころか五本の指を絡めて、やんわり握りしめてくる。
俗にいう恋人繋ぎ。
優美とするのははじめてだ。
「ちゃんとこっち見て」
優しく甘く、それでいてどこか咎めるような声色。
「見てるよ」
「そこは鼻の頭。瞳孔をもう少し上に動かさなきゃ、わたしと視線は重ならないよ」
「……」
すごい観察眼だ。俺では絶対気づけない。
指摘された以上、微妙に瞳からズレた場所に焦点を結ぶわけにはいかない。焦点を綺麗なアーモンド形の瞳に結ぶ。ふふっと優美は満足げな笑みを漏らした。
「慎哉くんって、ほんと素直でいい子だよね」
「優美には及ばないよ」
「ううん、わたしは悪い子」
絡められた指の力が少し強まる。
「みんなを騙していい子のふりして、裏では不満を吐き出してる。こんなわたしを知ったら、きっとみんな友だちやめちゃうよ」
色濃く寂しさの滲んだ声だった。
優美はクラスで求められたキャラクターを演じているけれど、彼ら向ける想いに嘘偽りはないのだろう。
だから不安なんだと思う。
もし、なにかの拍子でほんとうの自分が露呈したとき、そんな自分を認めてくれるのかって。失望せずに、今の関係のままでいてくれるのかって。
「で、俺だけが優美を独占できるってわけか。すばらしいシナリオだ」
悪くないかもね、と優美は微笑み、けれどすぐにその笑顔は翳ったものに転じる。
「……もしわたしがみんなに嫌われても、慎哉くんは変わらず側にいてくれるよね?」
「あたりまえだろ」
迷うはずなんてなかった。
「俺は絶対に優美から離れたりしない。優美が俺から離れたくなったのなら、そのときは別だけどね」
「……そっか。ありがとう慎哉くん」
空いていた拳ひとつ分の距離を詰めて、優美は俺に身体を押しつけてくる。
柔らかくほのかにあたたかい感触。胸から胸に伝う拍動。
鼻を抜ける髪から漂うシャンプーの香り。
肩に頭を預けられているから、俺の位置からは優美のつむじしか見えない。
「お父さんとお母さんは、今日はお仕事でいないの?」
「っ」
家に招いた時点で、その質問が飛んでくるかもしれないと覚悟はしていた。
けど、まさかこのタイミングで。それも、明らかに面倒な俺の過去に優美の方から踏み込んでくることが意外だったから、俺は驚きで返答に窮してしまう。
「その反応は、いないってことでいいのかな」
「……いいや。父さんはいる。滅多に帰ってこないけど。……母さんはいないよ」
答えた直後、胸の奥の柔らかい部分がずきずきと痛みはじめた。
心臓が高鳴り、呼吸が荒くなる。
けれど熱の高まりは感じず、むしろ熱が冷めいくような感覚を覚える。指先がぷるぷると震え出す。
「慎哉くん……」
「は、はは……情けないな。こんな姿見せちゃって」
「ごめんね。わたし、いつも自分のことばっかりで」
優美がさらに身体を押しつけてくる。
まるで俺をあたためるように。
「慎哉くんも傷ついてるのにね。なのにわたしは慰めてもらってばかりで……」
今にも泣き出しそうな声色だった。
「ごめんね。こんな頼りない彼女で」
優美に似合わない弱々しい声。
「そんなことないよ。優美が隣にいてくれて俺は救われてる。自慢の彼女だ」
頭を撫で、柔らかく華奢な肩を抱き寄せる。
「わたしはもらってばかりで、慎哉くんになにも与えられてない。平塚くんを引き離してくれたのは慎哉くんだし、クラスでのわたしの立場が変わらないでいるのも慎哉くんのおかげ。わたしは自慢の彼女なんて呼ばれていい器じゃない」
「急にどうしたの? 俺は後ろ向きな優美より、前向きな優美の方が好きだよ」
ここまで悲観的な優美はこれまでに見た記憶がない。
「……とられちゃいそうだもん」
「っ」
氷の刃を胸に突き立てられたような気がした。
「慎哉くんのことが好きって言ってる子がいるんだ。その子、もうちょっと後押しすればすぐにでも告白しそうな感じで……だから、そうなったら……」
徐々にすぼんでいく声が、優美の胸にわだかまる不安の大きさを物語る。
……よかった。葉月との関係がバレたわけじゃないんだな。
優美が見ていないのをいいことに、安堵の息を吐き出して調子を整える。
「優美、顔上げて」
「ん」
優美が顔を上げると同時にキスするつもりでいたけど、できなかった。
「優美……」
優美が目を真っ赤にして涙を流していたから。
「大丈夫?」
「え、なにが?」
「すごい泣いてるから」
目尻を拭うと指に涙の粒が乗り、それを見て優美ははじめて自分が泣いていることに気づいたらしい。
「へへ、はずかしいとこ見せちゃった」
「……」
はにかみ笑いする優美を見て――俺は胸を鷲掴みにされたような苦しさを覚える。
優美のまっすぐで純粋な好意が痛い。
優美の信頼を裏切り、葉月とも男女の関係を築いているという現実。
その現実から目を背け、今は優美の彼氏、そう割り切っている自分に反吐が出る。
俺はこの優しい子をこれからも裏切り続けるのか?
好きだよ、愛してるよって言って、この子を安心させ続けるのか?
それが優美にとっての幸せなのか?
「ねぇ慎哉くん、えっちしよ」
そんな葛藤の最中、優美の甘美な提案が俺の耳朶を打つ。優美の顔は火照り、目はとろけ、完全にそういうことをするのに適した状態になっている。
この状況に興奮していたのは、優美も同じだったらしい。
普段の彼女なら、絶対にこんなことを口にしない。舌を使うキスをしたのだって、今日がはじめてなのだ。
「わたしね、平塚くんと一回してるんだ」
唐突なカミングアウトに、俺ははじめなにを言われているのか理解できなかった。
……いや、理解することを自ら拒んだ。
「けど乱暴にされたから痛かったって記憶しかなくてね。……だから慎哉くん。気持ちよかったって記憶に塗り替えてくれないかな?」
「優美……」
平塚と一回した。
それはすごく言いにくいことだろうし、隠すこともできただろうに、優美はそうしなかった。
それはおそらく、俺を信頼しているから。俺に嘘をつきたくないから。
「……はじめてだからうまくできるかわからない。けど、最善は尽くすよ」
だから、その期待に応えてあげたいと思った。
俺のはじめてを、最愛のこの子に捧げようと決意した。
優美は、聞かずと俺の返事がわかっていたかのように余裕のある笑みをたたえた。
「大丈夫。苦しいくらいに愛しくて大切な人とするえっちだから、気持ちいいに決まってる」
長らく繋がれたままだった手を離し、優美は両手を俺の頬に添えて短く口づけしてくる。
「それに、慎哉くんは優しいもん」
「……そうだな」
多角関係を築いてる俺が優しいわけがない。
そんな葛藤を胸の奥に追いやり、俺は優美にキスを返す。
「優美の望み通り、気持ち良かったって記憶に塗り替えてやるからな」
「うん」
俺は、鴨川優美の彼氏。
そう自分に言い聞かせて、俺は優美の望みを叶えることに意識を集中させた。
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