第11話 小さな進歩

 ラテが響いたのか、二口も三口も食べさせられたフラペチーノが響いたのか。

 レストランフロアに着いた途端に激しい腹痛が押し寄せて、かれこれ五分ほどトイレにこもってしまった。個室の外に誰一人として並んでいなかったのは救いだろう。


「――だからいるって言ってるじゃないですかっ! しつこいなぁもうっ!」


 ……鴨川さんの怒声だ。

 ゆっくり歩いてる場合じゃない。声のした方に急いで駆け出す。


「嘘つくなって。ほんとは連れなんていないんだろ?」

「触らないでっ!」

「うわっ、傷つくなぁ~。そんなこっぴどく拒絶されちゃうと」


 ……声色が違うな。ふたりか?


「通報しますよ?」

「してもいいけど……したらどうなるかわかってるよなぁ?」


 いや三人か? まぁ何人だって構わないけど。


 やけに長いつづら折りの道を抜けると、鴨川さんが複数のチンピラに囲まれている姿が目に入った。


「いいねぇ、そのツンツンした態度。わからせてやりたくなる」


 四人いる。全員オールバックだ。

 まさに群れなきゃ生きられない現代人の典型だな。


「近づかないで! さ、叫びますよ?」

「叫んでもいいけど、助けがきたときには嬢ちゃん既にいないんじゃねぇの?」

「……」

「叫んだらどうなるか、言わなくてもわかってるよなぁ?」

「――それは俺の台詞だ」

「へ?」


 振り返ったチンピラの胸倉を掴みあげて壁に叩きつける。


「っ、矢地くん……!」

「なぁアンタ。俺の優美になにしてんだよ」


 胸を締めあげる力を強める。


「ウゲゥェッ……!」

「優美が困ってるだろ。なぁ、見てわからないのか?」


 苦悶の声を漏らすチンピラが、ふるふると首を横に振る。

 わかっててやったのか。ますます度し難いな。


「んだよてめぇ!」


 と、後ろから踵を強く蹴り上げられる。


「……今蹴ったヤツ、誰だ?」


 振り返り、背後を睨み据えていう。


「ひいっ……!?」


 腰を抜かすチンピラがひとり。あいつか。

 

 眉間に皺を寄せ、わざと足音を大きく立てて近づき、勢いよく胸倉を掴み上げる。


「おい、一回しか言わないからよく聞け」

「……な、なんでしょう」

「デートの邪魔だ。とっとと失せろ」

「ひゃ、ひゃいっ!」


 チンピラのひとりが逃げ出すと、残りの三人も雲の子を散らすように逃げていった。


「……ふぅ。ごめん、俺のトイレが長引いたせいでこわい思いさせちゃったね」


 振り返ると、鴨川さんはぼーっと熱に浮かされたような顔をしていた。


「鴨川さん?」

「……違う」


 ふるふるとかぶりを振る。


「もっかい」

「もっかい?」


 暴力は好きじゃないから避けたいというか既にチンピラがいないんだけど。


「うん。もっかい」


 こくりとうなずき、鴨川さんは小さな声でいう。


「優美って呼んで」

「……言ったっけそんなこと?」


 激情に身を任せていたからよく覚えていない。


「優美って呼んで」

「……」


 彼女にこんな切実な瞳を向けられて茶を濁そうものなら彼氏の名折れだ。

 じぃ~っとこちらを見つめる期待に満ちた瞳に、俺はひとつ咳払いしていう。


「……ゆ、優美」


 たかが名前を呼ぶだけ。されど名前を呼ぶという行為。


 意識すると妙に全身がむず痒くなってくる。

 はじめてキスしたときよりも胸が高鳴っている。


「……もっかい、慎哉くん」

「え?」


 今、〝矢地くん〟じゃなくて、〝慎哉くん〟って呼ばなかったか?


「……好きだよ優美」


 名前を呼ぶだけでは味気ないので、少しアレンジしておく。


「わたしも慎哉くんが好き」

「っ……!」


 その瞬間、かもが――優美以外の人間が俺の世界から消滅した。

 俺と優美だけの、ふたりだけの世界が完成した。


「……優美の素直なところが好きだ」

「どんな話にも優しく受け答えしてくれる慎哉くんが好き」


 無意識に足が一歩、優美に近づく。


「優美のちょっぴりめんどくさいところも好きだよ」

「わたしも慎哉くんのちょっと捻くれたところが好き」


 ――あと二歩。


「優美の声が好きだ。聞いてるだけで落ち着く」

「慎哉くんの匂いが好きだよ。近くにいるだけで、ほっとできるんだ」


 ――あと一歩。


「……優美」

「慎哉くん……」


 もう言葉はいらない。

 俺たちはお互いのすべてが好きだから。そう確認できたから。


「んっ……」


 どちらともなく顔を近づけて、吸いつけられるようにくちびるを重ねる。


 短いキス。長いキス。ついばむようなキス。くすぐるようなキス。


 優美は多様なキスで俺を翻弄しようとするけど、どれも既に葉月としたことがあるものだ。


 俺はもっとすごいキスを知っている。お互いをもっと気持ちよくする方法を知っている。


「んんっ!?」


 優美の口を割り舌を侵入させる。


「し、慎哉く……んふぁっ!」


 歯の裏側からでもわかるほどに綺麗な歯並びだ。ちょっぴりいちごの味がするのは、さっきまでいちご味のフラペチーノを飲んでいたからだろう。


 フラペチーノは甘くて飲みきれないが、優美の唾液で薄められたフラペチーノならいくらでも飲むことができる。舌先で顎の裏や上歯茎を突いたりしながら、かすかに残ったフラペチーノの風味を堪能する。


「ん、んぐっ、んん~っ!」


 苦しそうに喘ぐ声が頭に響く。すぐに舌を抜き出し、優美の顔色を確認する。


「大丈夫?」

「はぁ、はぁ…………しゅ、しゅごしゅぎ」


 口を半開きにしたまま、はぁはぁと優美は息を切らしている。

 涙の滲んだ熱っぽい瞳。少しやりすぎたなと今更ながらに後悔してしまう。


「ごめん。急にがっついちゃって」

「ううん、いいよ。慎哉くんがわたしで興奮してくれてうれしいし。……まぁ場所はもう少し考えてほしいところだけど」


 ちらと優美が視線を送った先には、呆けた顔で立ち尽くす女性がいた。


「じゃ、じゃあ慎哉くんっ! ご飯食べにいこっか!」


 照れくささを誤魔化すように、優美は俺の手を握り締めて先導しようとする。


 その行為に至るまでに戸惑いはなかった。


「うん。行こうか」


 付き合いはじめてもうすぐ一か月。

 ようやく自然と手を繋げるようになった俺たちだった。

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