第10話 好きでもない相手と付き合うくらいなら……
いつもいつでも自分らしく振る舞うことは、現代社会において不可能だ。
たとえば、身分という壁が立ちふさがる。目上の相手には敬語で。誰が決めたかわからないけどそれは常識で、従うのが当然で。
だから敬意があろうがなかろうが、誰しも目上の相手には敬語を使う。上辺だけの笑顔を浮かべる。そして相手はその笑顔に微笑み返す。
そんな狂った常識が幼少期から埋め込まれるから、ひとはみな嘘をつくのが得意だ。面白くなくても笑うし、困っていても笑うし、悲しくても笑う。
むしろ表情と感情が一致していることの方が少ないのではないだろうか。
「カモちゃんもそう思うだろ?」
「うーん……そう、だね。うんっ、そう思うっ!」
「だよな~」
――一か月前のこと。
当時、鴨川さんは平塚という男子生徒と付き合っていた。
平塚は、成績が優秀で、サッカー部エースで、親は高級取りで、爽やか皇子様風の容姿という、マンガの世界から飛び出してきたのかよ、とツッコみたくなってしまうほどに高スペックな生徒だった。
平塚と鴨川さんは一年の秋頃から付き合っていて、周囲からお似合いだね、なんて言われていた。俺もそう思っていたひとりだ。
絵に描いたような美男美女カップルだった。
薔薇の高校生活ってやつを謳歌してるんだろうなって、ふたりとクラスが違うときは思っていた。
「あ、そうだ。今度の土曜、映画行こうよ。どう?」
「土曜かぁ。う~ん、その日はちょっと……」
「なんか予定ある感じ?」
「まぁね。大した用じゃないんだけど……」
「なら映画行こう。用事次第ではいっしょに消化できるかもしんないし」
「う~ん……どうかなぁ」
「相変わらずカモちゃんは煮え切らないなぁ」
鴨川さんはいつも笑っていた。それも自然な笑顔。
眉根を寄せていたり、微苦笑混じりだったり、そんなことはなく。真摯に受け答えしていることが目に見えて明らかな朗らかな笑み。
みんな鴨川さんは思い切りの悪い子だと認識しているから、彼女の躊躇いに誰も疑問を覚えない。困ったように委縮する彼女の姿に愛嬌を感じ、みんな可愛がり、鴨川さんもそれを否定しない。
それが鴨川優美の日常。二年生で同じクラスになり、四月末までに俺のなかで形成された鴨川優美という女の子。
だから惹かれたのかもしれない。
「どうしたの矢地くん?」
その日まで接点なんてなかったのに、鴨川さんは俺の誘いに応じて放課後の教室に残ってくれた。
俺と鴨川さん以外誰もいない教室は日中の喧騒が嘘みたいに静かで、窓から仄かに差し込んだ夕陽のオレンジがどこかノスタルジックな空気を醸していた。
「鴨川さん、俺と付き合おう」
あまり時間を取っても悪い。
迂遠な物言いをせず、俺は単刀直入に用件を切り出した。
「へ?」
目を丸くする鴨川さん。そりゃそうなって当然だ。
鴨川優美には既に彼氏がいる。そのことを知らない生徒なんて、クラスどころか学年にもほとんどいないだろうから。
「どうかな?」
「……え、えっと、その……」
胸の前で指をつんつんしながら、視線を泳がせている。
……見るに堪えないな。
その姿に憐憫と微かな苛立ちを覚えた俺は、三歩分くらいあった鴨川さんとの距離を詰めて、彼女の両手の甲を強く握りしめる。
「ふぇえ!?」
「俺じゃダメかな?」
少し強引すぎる気もするが、鴨川さんが相手ならこれくらい積極的でちょうどいいくらいだろう。
「……だ、だめってことはないよ」
斜陽が鴨川さんの頬を朱に染め上げていた。
「や、矢地くん、クールで女子にそこそこ人気だし」
俺の性格を知れば、こぞって失望するんだろうな。
「つまり、俺の告白を受けてくれるってこと?」
「……」
茹だったように顔を赤くした鴨川さんは、つーと視線を横に流し、無言に徹しはじめる。
「ふぅ」
手を離し、俺は小さくため息をつく。
「その生き方、大変じゃない?」
「生き方?」
俺はうなずく。
「みんなの理想の鴨川優美を演じて、嫌なことを嫌って言わずに常に同調に徹する。たしかにその生き方は楽だよ。誰とも対立しなくて済むだろうし、周りの子たちもいっしょにいて楽しいだろうから孤立もしないと思う」
人間誰しも、自分の意思を尊重してくれる人間を側に据えたいものだから。
「けど、その代償に自分を殺すことになる。所謂、無個性ってやつに染まってく。ねぇ鴨川さん。ほんとうに好きなことを誰かに話したことってある?」
じっと見つめて問いかける。
「……ない」
かすかな沈黙ののち、鴨川さんは小さく口を動かした。
視線を逸らし、どこか悲しそうな顔をして。
「鴨川さんさ、少年マンガ好きなんじゃない?」
「っ! ど、どうしてわかったのっ!?」
アーモンドの形をした瞳に好奇の色が宿る。
その瞬間、俺ははじめて鴨川優美という女の子と対峙した。
「クラスの男子が話題にするたびに、身体が反応してるからね。鴨川さん、わかりやすすぎ」
わざとからかうようなことを言ってみる。
「……そ、そういう矢地くんは、いつもわたしのことばっか見てるんだ?」
ちらちら俺の顔色を窺っている。責めるようなことを言うことに申し訳なさを感じている。
この期に及んで、鴨川さんは自分のことよりも相手のことを優先している。
「うん、そうだよ。鴨川さんのことが気になってるから」
「っ……そ、そうなんだ。で、でもっ! じろじろ女の子見るのはよくないと思う。……かな」
「具体的にどうよくないの? 気になる女の子を目で追っちゃうのは当然じゃない?」
「……そうだけどさ」
「そうだからなに? そんな曖昧な返事じゃ肯定されてる気も否定されてる気もしないんだけど」
と、鴨川さんがじろりと睨みつけてくる。
「……矢地くんって嫌なひとだね」
……なるほど。これが鴨川優美本来の姿か。
いつもとまったく雰囲気が違うじゃないか。
「ウザいことしてごめん。けど、俺は外行きの鴨川とじゃなく素の鴨川さんと話したくてさ」
「……それで話って?」
ようやく本題を切り出せそうだ。
「鴨川さんはさ、どうして好きでもない相手と付き合ってるの?」
「勝手に決めつけないで。その上からな態度、気に食わない」
斜に構えるように、冷たい光が瞳に宿っていた。
「いいね、その強気な態度。俺は素の鴨川さんの方が好きだよ。人間味に溢れてる」
「……そ」
満更でもなさそうな顔だ。
面はゆさに耐えかねたのか、視線をワックスの輝きが真新しい木目の床に落とす。
「……周りがそうなってほしいって思ってるから」
少し遅れてぽつりとつぶやく。
根っから優しい子なんだろう。無視せず、俺の問いかけにしっかり応じてくれる。
「別に気になるひともいなかったし、なら試しに付き合ってもいいかなって。そんな軽い気持ちで平塚くんと付き合いはじめた。……今となってはすごく後悔してるんだけどね」
自嘲するように、口の端を少し釣りあげる。
「どうして?」
「毎日苦しいんだ」
視線を落としたままリボンタイとブレザーを、その先にある決して実際に掴むことはできない心を、きゅっと握り締めながら、鴨川さんは絞り出すような声色でいう。
「わたしね、嘘をつくのもつかれるのも大嫌いなんだ。だから今のわたしは大嫌い」
顔をあげて俺を見つめ、鴨川さんは呆れたような笑みを携える。
「さっき矢地くんが言った通りだよ。わたしは同調の代償に自分を殺してる。そしてそれに慣れちゃってる。これがあたりまえで、もう変えようがないことなんだって、諦めちゃってるんだ」
「だろうと思った」
鴨川さんにしてみれば、一世一代の告白だったと思う。
けど、俺は既に鴨川さんが既にそういう状況にあるってわかっていたから、大して驚きはなかった。
……嘘をつかれるのが大嫌いか。俺と高相性だな。
「冷めてるね」
平然としたままの俺を見て、鴨川さんは苦笑する。
「上辺だけの共感じゃないよ。俺は鴨川さんと似てる。だから痛みがわかるんだ」
「わたしの痛みなんて誰にもわかりっこない」
「そうだね。全部が全部わかるわけじゃない」
俺がどうして鴨川さんにこんなことを話しているのかもわかるはずがない。
「けど、こうして不満を吐き出して、少しは楽になれたんじゃないかな?」
ぱちぱちと鴨川さんは目をしばたたかせる。
「……ほんとだ」
「でしょ?」
微笑んで、再び鴨川さんをまっすぐ見つめる。
「……」
改めて綺麗な子だと思った。容姿も、中身も含めて。
「俺は君の笑顔のために全力を尽くすって約束する。君に苦しい思いは絶対にさせない。だから平塚と別れて俺と付き合おう。うまくやっていけると思うんだ、俺たち」
「……」
長い沈黙ののち、鴨川さんは答えた。
「……別れ話って、どうやって切り出せばいいのかな?」
こうして俺たちは付き合うことになった。
――葉月に告白される二週間前のことだった。
平塚に殴られたり、透子ちゃんが平塚を恐喝したり、付き合うに至るまでに一悶着……とまとめるには無理があるくらいのごたごたがあったんだけど、まぁそれは別の話だ。
俺と鴨川さんは、クラスメイトには秘密で付き合っている。
その真実さえあれば、ほかの醜い側面はどうだっていいだろう。
俺がはじめ好意もないのに鴨川さんと付き合っていたことだって、今となっては後の祭りだ。
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