第9話 彼女とのデート
「はぁはぁ……ごめん、ね。待たせた、よね?」
「電車の遅延だから仕方ないよ」
土曜日。休日で多くのひとが行き交う駅前に俺と鴨川さんはいた。
長い髪はハーフアップに。服はやや大きめのグレーのスウェットに黒のデニムパンツ。肩から斜めに掛けられたポシェットは、鴨川さんの呼吸に合わせて命を宿したみたいに上下に動く。
「でも、わたしがもっと早くに家を出てれば避けられたことだし……」
「気にしないでって言ってるでしょ。鴨川さんが無事に待ち合わせに来てくれただけで俺は満足だよ」
靴は素朴な黒いスニーカー。さっきから何度も目にする厚底ブーツなんかじゃない。
そんなどこか野暮ったい服装でも周囲の目を惹くのだから、鴨川さんはすごい。
「相変わらず慎哉くんは優しいなぁ」
「相変わらず鴨川さんは俺を買い被りすぎ」
付き合ってからこれまで何度もデートしてきたけど、鴨川さんがイマドキの女の子っぽい衣装を着てきたのは最初の一回だけだ。以降は、俺を喜ばせようなんて考えずに鴨川さんの好きな服を着てきていいと伝えてある。
鴨川さんは動きやすさを重視したラフな服装が好きだ。
「ふふ……ふぅ。落ちついた」
大きく息を吐き出し、鴨川さんはうーんと身体を伸ばす。
「じゃ、いこっか」
後ろ手を組んで微笑みかけてくる。
「うん」
笑みを濃くし、右手を俺に伸ばしてくる。その手を左手で握り返すと、鴨川さんは強く握ったり弱く握ったりして、照れくさそうに笑った。
「えへへ」
これが鴨川さんの精一杯だ。
指を絡めたりせずに、ただ互いの手の温もりを感じるだけ。
悪くない。心地いい距離感だ。
「でも、俺なんかでよかったの? スタバ行くなら女の子同士の方が楽しいと思うんだけど」
「ヤだよ。休日くらい羽根伸ばしたいし」
「俺にその大役が務まるかな」
「大丈夫。矢地くんとふたりでいるってだけで、わたしは充分癒されてるよ」
「俺ってそんなヒーリング効果あったんだな」
「ふっふふ~ん。わたしひとりで独占しちゃって申し訳ないなぁ~」
鴨川さんは俺の前では嘘をつかない。
そんな彼女がずっと楽しそうだから、俺もうれしくなってくる。
こんな俺でも、鴨川さんの幸せに貢献することができてるんだなって。
駅前の交差点を渡ってすぐの場所にあるショッピングモールに入る。目的のスタバは一階にあるけど、その前に行く予定の場所がある。
エスカレーターに乗って八階に。このフロアには大きな本屋がある。
「あ、あったあった!」
そう鴨川さんが声を弾ませたのは、マンガコーナーの手前だ。
うず高く積まれた新刊コーナーのなかから一冊の少年マンガを手に取り、弾けるような笑みを浮かべる。
「やった! まだポストカードついてるっ!」
鴨川さんは少年マンガが好きだけど、そのことを知っているクラスメイトは俺しかいない。鴨川さんはずっとマンガ好きであることを隠している。みんなの理想の鴨川優美であるために。
「早く来た甲斐があったね」
「うんっ」
ぬいぐるみを抱き締めるみたいに、冊子を胸に抱く鴨川さん。
このマンガは一世を風靡した時期もあるほどの人気作で、なかでも男性読者から熱い支持を受けている。かくいう俺も読者のひとりだ。
「じゃあ俺は……これにしようかな」
「おっ、いいねぇ。悪くないセンスだ」
「どの視点だよ」
くすくす笑う鴨川さん。
俺が手に取ったのは、鴨川さんとは別のマンガだ。鴨川さんが一冊。俺が一冊。シェアすれば、一冊分の値段で二冊の本を読むことができる。
「ほかには大丈夫?」
「そう……だね。うん、今月ほしいのはこの二冊くらいかな」
封入されているポストカードが違うからか、同じ冊子を二冊持っている。
どちらも鴨川さんの一番好きなキャラクターの描かれたポストカードだ。
鴨川さんには、一番好きなキャラクターがふたりいる。
「矢地くんは?」
現実でもそれが許されたら。……なんて少しだけ夢見てしまう。
「ちょっとだけ啓発本コーナーが見たいかな」
昔からの癖だ。俺は乱読家なので、メジャーなマンガでも、悪役令嬢もののライトノベルでも、積み立てNISAの啓発本でも、ライト兄弟の伝記でも読む。
理由のひとつは、知恵を蓄えるため。もうひとつは、現実から目を背けるため。
鴨川さんは気分を害した素振りを見せることなく笑顔でうなずく。
「ちょっとと言わず、いくらでも構わないよ。矢地くんが好きなもの、もっと教えてほしいな?」
それから啓発本コーナーで何冊か冒頭部だけ読んでみたけど、購買意欲を煽るようなものはなくて、結局俺が買ったのは一冊のマンガだけだった。
鴨川さんはマンガに加えて、啓発本を一冊買っていた。前に俺が買った啓発本だ。
「頼まれたら貸したのに」
啓発本は基本的に一冊千円以上する。マンガの単行本が二冊買える値段だ。
「借りたら絶対読まなきゃって脅迫観念に駆られちゃうからこれでいいんだよ」
鴨川さんは言った。
「自分のものなら、読まなくても誰からも咎められないし。ほら、わたしってマイペースだから」
「たしかに、俺の前ではマイペースだもんね」
「だから矢地くんは特別なんだよ」
エスカレーターに乗って一階に戻る。
スタバに向かうと、店内はたくさんのひとで賑わっていた。店内の席は既に満席に近い状態だったので、注文した商品を受け取って外のテラス席に腰かける。
ストロベリーフラペチーノを注文した鴨川さんは、ドリンク部分の上に乗ったホイップクリームをスプーンですくって頬張り、たいそうご満悦そうな笑みを浮かべる。
「う~んっ、おいし~!」
「今回もまたドリンクっていうよりはデザートだね……」
鴨川さんと付き合うまではスタバとは無縁の生活を送っていたけど、今となっては俺も立派なスタバマスターだ。変に背伸びせずにラテを頼めるようになった。
フラペチーノは甘すぎて、俺には完食できなかった。人間、身の丈にあったものを選ぶのが大切だと思う。
「矢地くんもひとくちどう? おいしいよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
口に運ばれたスプーンを頬張る。
……うん。やっぱり甘い。おいしいけど一口で充分だ。
ひとしきりティータイムを満喫したところで、俺たちはさっき買ったマンガを読みはじめる。特典のポストカードがなくなる前に本を買いたかった、というのも最初に本屋に行った理由ではあるけど、一番大きな理由は同じ時間を共有するためだ。
特に会話が交わされるわけでもない、互いにマンガに熱中する時間。
この時間が心地いい。
好きなひとと同じものに夢中になっているというだけで、不思議と胸が満たされてしまう。
マンガを読み終えて顔を上げると、鴨川さんが頬杖をついてじっとこちらを見つめていた。
「あ、ごめん。待たせたかな」
「いいよ。おかげで好きなひとの顔をじっくり眺めることができたからね」
俺とふたりきりのとき、鴨川さんは包み隠さず好意をぶつけてくる。手を繋ぐのも一苦労の鴨川さんだけど、言葉でのアプローチには一切抵抗がないみたいだから不思議なものだ。
えへっと顔を赤くし、鴨川さんは俺にマンガを渡してくる。それを受け取り、俺も今読み終えたマンガを鴨川さんに渡す。
俺が読んでいるマンガは鴨川さんも読んでいるし、鴨川さんが読んでいるマンガは俺も読んでいる。
どちらか片方しか読んでいないマンガは存在しない。お互いにお互いが読んでいるマンガは、すべて把握している。
早速ページを開くも、じぃ~っと突き刺さる視線が気になって、まるでマンガの内容が頭に入ってこない。元から小難しい内容で、かてて加えて新章の導入部分で説明パートが目立つ回だから、雰囲気で流し読みするわけにもいかない。
顔を上げて鴨川さんを見つめる。
「どうかしたかな?」
「べっつに~」
赤らんだ顔を机の上で組んだ腕に埋めて、視線をあらぬ方向に向ける。
「……彼女から好きって言われても、矢地くんはなんとも思わないんだな~って」
……ほんと、俺にはもったいないくらいに可愛い彼女だ。
マンガを閉じて、鴨川さんの耳にかかったサイドの髪を指でとく。
「そんなことないよ。うれしいし、はずかしい。だから反応が素っ気なく見えるんだよ」
「……好きって言ってくれたら許してあげないこともない」
変わらず視線は逸らしたままだ。
俺は鴨川さんの耳に顔を近づけ、声をひそめてつぶやく。
「愛してるよ優美」
「っ!?」
弾かれるように鴨川さんは顔を上げる。顔はもちろんのこと耳まで真っ赤だ。
「や、矢地くん、い、今……」
「……これでお相子ってことで」
それから読んだマンガの内容は、ほとんど覚えていない。
まぁいい。すぐに鴨川さんが嬉々として解説してくれるだろうから。
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