第6話 食べさせあいっこ

 葉月は自分の弁当箱を手に取り、俺に渡してくる。


「……ありがと」


 首を傾げつつも俺が弁当箱を受け取ると、葉月は俺の箸と弁当箱を手に取った。


「……なるほど。だから教室では食べないのか」


 蓋を開くなり、葉月は神妙な顔をしてそうつぶやく。


「なんの話?」

「ううん、なんでもない」


 にこっと葉月は頬をほころばせる。


「せっかくだから、食べさせあいっこしようよっ」


 昨夜ビーフシチューを食べさせあったとき、葉月は随分と楽しそうにしていた。食べさせあうことにハマってしまったのかもしれない。


 断る理由もないので、俺はうなずいて葉月の提案を承諾する。


「いいよ。ならウインナー、お願いしていいかな」

「りょうかいっ」


 にっと葉月が笑う。


 楽しそうだ。葉月が楽しいなら、俺はなんだっていい。

 今の葉月にとって、俺と過ごす時間が唯一楽しいと思える時間だろうから。


「あ~ん」


 口に運ばれたウインナーを一口で頬張る。

 箸に触れずに、なんてことは考えない。俺たちは恋人だから、間接キスしたって誰にも咎める権利はない。


 咀嚼し終えたところで、葉月から箸が渡される。


「じゃ、はーちゃんはミートボールで」

「了解」


 二段弁当を一段ずつ分けると、やっぱり箸は挟まっていた。


「えへへ~」

「べつに嘘なんてつかなくていいのに」


 蓋を開けると、色とりどりのおかずが所狭しと弁当箱に詰まっていた。

 幼い頃から葉月は料理が得意だ。といっても、今弁当箱に収められているおかずのほとんどは冷凍食品なんだろうけど。


 タレで制服が汚れないよう、箸といっしょに弁当箱も直前まで近づけ、顎下あたりまできたところで、箸でつまんだミートボールを葉月の口に運ぶ。


「はーちゃんは、あ~んって言ったよ」


 からかうような笑み。

 俺があ~んって言わないと、口を開いてくれなさそうだ。


「あ~ん」

「正直でなにより」


 満面の笑みを浮かべてぱくりとミートボールを頬張り……

 と、ここまでは想定通り。


「んっ、じゅるる、じゅるぅ、ぷあっ……ふぅ。ごちそうさま」

「……」


 箸の先端がてかてかと光っている。葉月の唾液で光っている。


「次はなにがいい?」

「……じゃ、スパゲティで」


 葉月に箸を渡し、さっきと同じ要領で運ばれてきたスパゲティを頬張る。

 やけに水気を帯びた麺は、たらことミートボールとちょっぴり葉月の味がした。


 次に葉月が選んだのは唐揚げだ。

 あんかけのようなものがついていない普通の唐揚げ。


 口まで運んだ箸をついばむと、葉月は唐揚げがなくなってからも執拗に箸をしゃぶり続ける。


「あむぅ、ん、んぐっ、んんぅ……はぁ。冷凍食品だからってバカにできないね」


 箸の先端と葉月の口のあいだには、細く透明な橋が架かっている。それはゆっくりゆっくり俺の持つ葉月の弁当箱に滴り落ち、けれど葉月はそれを歯牙にもかけない。


「ねぇ、やっちゃん」


 小動物のようにくりくりした瞳はとろんととろけ、俺だけをじっと見つめている。


「はーちゃんにもちょーだいよぉ」


『なにを』なのかは、聞かずとわかる。


「……ここ、学校だぞ」


 今の葉月は、完全にそういうことをするときのスイッチが入っている。

 葉月はむぅと頬を膨らませ、ジトっと細めた目を俺に向けてくる。


「やっちゃんは、ヤなの?」

「嫌じゃない。むしろめちゃくちゃしたい。けど、ここは学校だから」


 そういうことは帰ってからすればいい。なにも、俺が鴨川さんと帰った日にしか葉月の家に行けないという制約があるわけでもないのだ。

 頼まれれば、俺はいつでも葉月の家に行けるし、俺もいつでも葉月とそういうことがしたい。葉月が好きという気持ちに嘘はないから。


「ふぅーん」


 納得してませんとでも言うような気のない返事。

 けれど葉月が次に浮かべたのは、困ったような笑顔だ。

 今朝、柴田さんに向けていたものとそっくりの笑顔。


「やっちゃんがそう言うなら仕方ないね。わかった。放課後まで我慢するよ」


 ――我慢するよ。


 何気なく葉月が口にしたその言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。


「ごめんね。困らせちゃって。はーちゃん、いつもわがまま言ってばっかだね」


 そんなことない。葉月はいつも我慢してばかりだ。


 今日だってそうだ。葉月に話しかけるのは、決まって勉強に関して聞きたいことがあるヤツだけだ。

 誰もプライベートな話を持ちかけない。スタバの新作がどうこう言ってる癖して、誰も葉月を誘おうとしない。


 そんなクラスメイトに寂しそうなまなざしを向ける葉月を、俺は今日までに何度も見てきた。そのたびに胸が痛くなった。俺が話し相手になろうと思った。

 けど、俺が話しかけに行くのは逆効果だから、そうはいかなくて……


「こんなんじゃ、友だちできなくて当然だよね……」

「違う」


 反射的に口を開いていた。


「葉月に友だちができないのは、既にクラスのヒエラルキーが確立してるからだ」


 驚いたように葉月が顔を上げる。

 俺がこんなに強く反論することなんて滅多にないことだからだろう。


 否定するのはこわい。意見が対立するのはこわい。

 恐怖と同時に、いつも母さんの泣き顔が頭をよぎる。


『ごめんなさいごめんなさい。なんでもあなたたちの言う通りにします。もう文句は言いませんから。だからどうか、息子に手を出すのだけはやめてください……』


 どれだけ恐喝され、蹴られ、殴られようと、母さんは決して俺を見捨てなかった。俺を必死に抱き締めてくれた。そんな母さんに、俺はなにもしてあげることができなかった。


 たまに思う。

 あのとき俺がもっと賢く強ければ、母さんを救えたんじゃないかって。


 けど、絶対にそうはならなかったとすぐに気づく。

 あの時の俺は中学生だ。子どもがひとり加勢したところで焼け石に水だ。母さんを救うどころか、母さんの努力を無にする確率の方が遥かに高い。


 つまるところ、あの頃の俺がどう足掻こうが母さんを救うことはできなかった。


 幼かった。非力だった。無力だった。覚悟がなかった。

 翻って今の俺は、心身ともに成熟している。体格も随分と恵まれた。


 鴨川さんや葉月や透子ちゃんのためなら、身を投げ出す覚悟だってできている。

 自分なんてどうだっていい。

 こんなクソみたいな人間、死んだって誰も気に掛けない。


 けど、彼女たちは必要とする誰かがいる。求めてくれる誰かがいる。


 だから……


「葉月、鴨川さんと友だちになろう」

「っ!」


 ビクッと葉月は大きく肩を跳ね上げる。


「……む、無理だよ」


 弱々しい声だった。


「鴨川さんとだけは友だちになれない。……なれないよ」


 罪悪感が肥大しているのだろう。

 不安に覆われた顔がすべてを物語っている。


「葉月……」


 あの日。――転校初日。


 葉月は、自らかつてのように人気者になる可能性を潰えさせた。

 

 

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