第5話 その笑顔が見られるのなら……

 昼食は空き教室でとっている。

 具体的には、教室がある二棟二階の向かいにある一棟二階の一室。


 この時間帯、この場所はいつも静かだ。

 三階に一年生のフロアがあり、一階にちょっとした購買みたいなものがあるから、そこを行き来する生徒の声が時折聞こえるくらい。


 ぼんやり青空を眺めながら、俺はおにぎりを頬張る。


「……塩カルビか」


 こりゃまた手の込んだものを。朝から無理しなくていいのに。


〝ぺたぺた〟


「……」


 廊下から足音が聞こえてきた。


 珍しい。生徒か教師か?

 食べかけのおにぎりをラップに包み、神経を廊下に張り巡らせる。


 俺のいる教室の前で足音がぴたりと止まる。

 少し間があり、ドアががらがらと開かれる。


「なんだ。葉月か」


 俺は頬をやわらげた。


「随分と冷めた反応だなぁ。もっとこう『待ってたよ』とか、『遅かったね』とか、気障なこと言えないの?」


 葉月はぷくっと頬を膨らませる。

 相変わらず稚い感情表出に、俺の心はますます弛緩する。


「事前にアポを取ってもらわないと心の準備ができないからね」

「あれだね。やっちゃんは、サプライズされたらキレるタイプだ」

「ああいうの、心臓に悪いから即刻廃止するべきだと思う」

「捻くれてるなぁ」


 呆れたように笑いながら、葉月は俺の前の席に腰かけた。黒板に向いていた椅子を俺のいる後ろに向けて、俺の前にある机で弁当包みを解き出す。さも当然のように。


「机、がっちゃんこしないの?」


 ひとつの机上にふたつの弁当箱は、やや狭いように思える。


「ひとつあれば充分だよ。なんなら椅子もなくていいくらいだし」

「立ち食いは消化にいいって言うもんね」

「誰も立ち食いするとは言ってないよ」


 椅子から立ち上がると、葉月は俺の隣に並んでう~んと小首を傾げ、机を少し前に押し出した。

 少し距離をとってうんと小さくうなずくと、再び俺との距離を詰めて、しかし今度は隣では留まらず、俺の膝の上に乗っかってきた。


「……っと、こういうのは前もって言ってくれないと危ないぞ」

「問題ありませんよー。はーちゃんはやっちゃんを信じてるので」


 なるほど。膝をぶつけないために、机を少し前に出したんだな。

 ……で、どうやってご飯食べるんだ?


 俺を振り返り、葉月はえへへと朗らかに笑う。

 今日はじめて見る葉月の楽しげな顔つきだった。


「やっちゃんチェアは、相変わらずはーちゃんにお誂え向きだね」

「辻葉月様以外のご利用は一切承っておりません。ご了承ください」


 冗談めかして言いながら、葉月の小さな頭を撫でる。


 葉月はいつも俺の傷を癒してくれる。

 だから俺も、葉月の傷を癒して恩返ししなくてはいけない。


 そんな雰囲気はまるでないけど、葉月が悲しんでるって俺にはわかるから。

 俺だけが、葉月の悲しみを理解してあげられるから。


「なら、鴨川さんに頼まれても断らなきゃいけないね?」


 何気なく漏らした葉月の言葉に、胸がきゅっと詰まる。


「……頼まないと思うな。鴨川さんはこんなこと」

「どうかなー。鴨川さんもエスカレートしたらはーちゃんみたいになっちゃうかもよ?」

「……どうだろうな」


 曖昧に濁すと、葉月は俺の首に腕を回して優しく抱き締めてきた。


「ごめんね。ちょっとイジワルなこと言っちゃった」


 すりすり小さな手のひらで背中をさすってくる。


「葉月が謝ることなんてないよ」


 鴨川さんよりも特別になりたい。

 それはずっと葉月が思っていることだ。


 だから、葉月のアプローチの仕方はなにもおかしくない。

 おかしいのは、この状況下で葉月を贔屓して機嫌を取れない俺の方だ。


「ねぇやっちゃん」


 俺を見上げて、葉月が問いかけてくる。

 俺の腹部に跨るようにして座っている葉月。仮に今この瞬間に扉が開いたら、そういうことをしているんだと勘違いされても文句を言えない体勢だ。


「おなかすいた」

「俺もすいてる」


 食べかけのおにぎりに加えて、一口も食べていないおにぎりがひとつと、まだ手をつけていない弁当箱が机の上に置かれている。


「でもはーちゃん、箸忘れちゃった」


 そう言う葉月は俺をまっすぐに見つめていて、気落ちした気配なんてまるで感じられない。


 俺は知っている。葉月の弁当箱は、一段目と二段目のあいだに箸がある仕様だ。

 だから、弁当包みを解いただけの段階で箸を忘れたかどうかはわかるはずがない。


「……」


 瞳に宿るのは淡い期待。


 ――葉月は嘘をついて、俺が望んだことをしてくれることに期待している。


「……なら、俺の箸を使うしかないな」


 葉月の顔が、ぱああと華やぐ。


 そうだ。これが辻葉月っていう女の子なんだ。

 こんなにも見ている側を幸せにする笑顔を振りまくことができる子なんだ。


 俺だけがその姿を知っていることに、優越感と寂しさを覚えた。


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