第3話 血のつながらない家族と安らかな時間
俺は、鴨川優美と付き合いながら、辻葉月とも付き合っている。
この歪な現状は、俺が大きな選択を迫られる場面で否定できない体質であるが故に生み出されたものだ。
わかってるんだ。
早くこの関係を終わらせるべきだって。終着点は破滅でしかないって。
けど、ふたりとは〝約束〟があるから。
〝約束〟を破るためには、対立しなくてはいけないから……
「どうしろって言うんだよ……」
就寝前、俺はぽつりとそんな迷いを口にする。
「鴨川優美と付き合いながら、秘密裏に辻葉月と付き合えばいい」
「……っ!」
背後から声がした。
「どちらも慎哉を好いているし、慎哉もどちらも好いてる。私は慎哉が幸せならなんでもいい」
時刻は深夜一時を回っている。
まさか反応があるとは思っていなかったから、心臓が飛び出そうなほどに驚いた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、ずっと起きてた」
シーリングライトの淡い光のおかげで、薄暗闇のなかでも彼女の顔はよく見える。
まず目を惹くのは月のように澄んだ瞳だ。放たれる光は鋭く、それでいて冷たい。
短く切り揃えられた髪は仄かな光を吸い込んで淡く艶めき、そのどこか少女らしさを感じさせる髪型と大人びた怜悧な顔立ちがちぐはぐなものだから、ぱっと見ただけで彼女の人柄を見抜くのはまず不可能と言えよう。
それが彼女の戸籍上の名義だけど、日常生活の大半では『
透子ちゃんは俺のクラスメイトで、血のつながらない家族だ。
――彼女とは四年前から、この家でいっしょに暮らしている。
「俺が帰ってきたときから寝室にいたよね?」
「慎哉のせいで眠れなかった」
むぅと頬を膨らませる透子ちゃん。
無表情が八割を占める透子ちゃんだが、残りの二割の表情は多種多様だ。喜ぶし、怒るし、悲しむ。透子ちゃんが実は天真爛漫だということには、クラスメイトの誰も気づいていないと思う。家族である俺だけが知っていることだ。
「はは……」
相変わらず透子ちゃんの口数は少なくて、どうして俺がいないと眠れないのか、理解が追いついていない俺は苦笑することしかできない。
苦笑ほどその場をやり過ごすのに便利な感情表現はないと思う。
「私の前では無理しなくていいって言ってるでしょ」
もっとも、透子ちゃんを前にすればその効力は無に等しいんだけど。
「それでどうしたの?」
俺の悩みの全貌を知りたがっているのだろう。
「……今日、いや昨日のことなんだけどさ」
「そんな細かいこと気にしなくていいのに」
そして俺は、血の繋がらない家族に答えを求める。
「なるほど。だから夕飯食べなかったんだ」
俺が長話を終えると、透子ちゃんは寂しそうに言った。
「ハンバーグ、けっこう時間かかったんだけどなぁ」
相変わらず、口数が少ないのに感情が表情に出やすい子だ。
「ごめん。明日食べるから」
帰宅してラップされた夕飯を見たとき、葉月の家に行くから夜ごはんはなくて大丈夫だと伝え忘れていたことを思い出した。その時、既に透子ちゃんは寝室にいた。
結局、俺が帰宅したのは十一時を回った頃だった。葉月の家に寄ると、帰りはだいたいこれくらいの時間になる。
「いい。ばい菌湧いてそうだし」
「一日くらい平気だよ」
「絶対安全って言い切れないならダメ。慎哉の安全が最優先だもの」
透子ちゃんは、いつだって過剰なまで過保護だ。
まるで母親のよう。
「わかった。次からはちゃんと夕飯いらないときはいらないって連絡する」
……母親がいるってこんな感じなのかな。
「そんな連絡いらない」
ひどく冷めた顔で透子ちゃんは言った。
「最近、帰り遅い日が目立つよ。夕焼けのチャイムが鳴ったら帰ってこなきゃダメでしょ」
「いや子どもじゃあるまいし……」
「ま、安心してよ。慎哉がおかしくなったら、私がちゃんと助けるから」
「話が飛躍しすぎてついていけないんだけど」
微笑んだまま、透子ちゃんはくるんと俺に背を向ける。
俺と透子ちゃんのあいだには、常に拳ふたつ分ほどの距離がある。この距離を透子ちゃんの方から縮めてくることはない。
透子ちゃんはいつだって、俺と適切な距離を取ってくれる。
「……透子ちゃん、俺、間違ってるよな?」
「正しいとか間違ってるとかどうでもいい。私は慎哉が幸せならなんでもいい」
心底興味のなさそうな声だった。
「鴨川さんと葉月を俺がこわしたとしても、透子ちゃんは俺を責めないのか?」
「鴨川さんはともかく、辻さんはその可能性も考慮して慎哉と付き合うことを選んでる。仮にこわれたとしても、慎哉を責めることはないと思うよ」
「……そっか。なら大丈夫だな」
そう結論づけた途端、胸が苦しくなった。
情けない。
ほんとうにどうしようもない人間だ、俺って。
ふたりが不幸になっても、自分が幸せならいいのか?
自分だけ幸せなら、万事解決なのか?
……違うだろ、そんなの。むしろ逆になってしかるべきだろ。
「ぅぅ……」
不意に、一筋の涙が頬を伝う。
「まだ泣けてる。誰かを想って涙を流せるうちはまともな人間だよ」
透子ちゃんが後ろから抱き締めてくる。やんわり抱擁して慰めてくれる。
「……ひぐっ、最低なんだよ俺」
胸にわだかまる苦く醜い感情を、震える喉で掠れた声にろ過して吐き出す。
「間違ってるってわかっててさ、その癖、喜んでるんだよ。葉月に言われた。やっちゃん、はーちゃんとちゅーすると喜ぶんだって。……はは、その数時間前に鴨川さんとキスしてるんだぞ? 付き合ってからはじめてのキスだぞ? その想い出を葉月に塗り替えられたってのに俺は……俺は、鴨川さんの想いを踏みにじって……っ」
「よしよし」
透子ちゃんが俺の頭を撫でてくる。ゆっくり優しく撫でてくる。
「わかってるじゃん。自分が悪いことしてるって。なら大丈夫だよ。まだ遅くない」
「変われないよ、俺は。俺はいつまでも誰かと対立することを恐れて、生涯イエスマンで生きていくんだ。そう決まってるんだよ……」
「ならどうして今、私の言葉に反論したの?」
まだ遅くない。
その言葉に、俺は変われないと強く言い返した。普通ならできないことだ。
「それは相手が透子ちゃんだから」
けど、透子ちゃんだけは特別だから。
「そ。私の前でだけ慎哉はありのままでいられる」
俺の頭を撫でていた手が止まる。涙は止まっていた。
「慎哉は私を信じてる。私も慎哉を信じてる」
両腕を俺の胸に回し、強く抱きついてくる。
「だから、私の言葉を信じて。慎哉は大丈夫。まだ遅くないよ」
「……まだ遅くない」
復唱すると、ささくれ立っていた心が落ち着きを取り戻した。
「慎哉は私が守るよ。だから安心して」
「……うん。ありがとう透子ちゃん」
「今日はずっと抱き締めてた方がいい?」
「うん。透子ちゃんがそうしてくれるとすごく落ち着くんだ」
「わかった。よしよし。いい子いい子」
「撫でてたら透子ちゃん眠れないでしょ? ……いい子なんかじゃないよ、俺は」
こんな俺をいい子と定義づける誰かがいたら、そいつはどうかしている。
たぶん、俺の家族かなにかだ。親族は自然と身内を贔屓するものだから。
やがて睡魔が押し寄せてくる。背中に感じる透子ちゃんの心拍音が心地いい。
毎晩透子ちゃんが慰めてくれるから、俺は鴨川さんと葉月の前で平静さを保つことができる。弱さをふたりに晒さず、強い自分のままでいることができる。
しばらくして、背中をさするあたたかい感触がなくなっていることに気づいた。
振り返ると、透子ちゃんはすぅすぅ寝息を立てていた。
「ありがとう透子ちゃん」
手を伸ばして頭を撫でると、透子ちゃんの口角が少しだけ釣りあがった。
ここは寝室。
透子ちゃんの部屋にはベッドがあるのに、透子ちゃんは決まって布団しかない寝室で寝る。まぁ、そういう俺も自分の部屋にベッドがあるのに寝室で寝てるんだけど。
寝室で寝る方が気持ちいいから。
俺がここで寝る理由は単純だ。
きっと透子ちゃんも同じ理由なんだと思う。
四年前から、俺たちは毎日隣り合って眠っている。
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