第2話 秘密の彼女と破れない約束

 夕飯を終えた頃には、すっかり街が夜の色に染まっていた。

 部屋の時計を見やれば、時刻は既に八時手前だ。


「それでやっちゃん、どこまで進んだの?」


 俺のあぐらの上に座った葉月が、首だけ後ろに回して問いかけてくる。


 葉月は身長が150センチしかないから、身長が170センチ以上ある俺が背もたれになれば、その小さな身体はすっぽり収まる。

 時折くんくん匂いを嗅いできたり、突拍子もなく微笑みかけてきたりするのは、単に俺とくっついているのがうれしいからだろう。


 敷居を跨いでからというもの、葉月はずっと俺のあぐらの上に座っている。食事の時でさえもだ。食べづらいと文句を言ったら、口にスプーンを突っ込まれた。ビーフシチューで満たされたスプーンだった。俺も葉月に同じことをし、葉月も同じことをし……と、そんなことを繰り返していたから、食事に一時間以上かかってしまったのだろう。


 楽しい時間だった。


「……キスした」

「へぇ~」


 答えると、葉月はくるんと身を翻し、にやにや茶化すような笑みを向けてきた。


「ようやくそこまで。それでどうだった?」

「相当に無理してるみたいで、その健気さが堪らなくかわいかった」

「ふ~ん」


 そう言う葉月は、笑みを湛えたままだ。


「気持ち良かった、とは言わないんだ?」


 俺は嘘をつけない。ありのままのことしか言えない。


 俺の返事が分かりきったものだからだろう。葉月は変わらず余裕たっぷりだ。


「葉月とのキスの方が断然気持ちいいよ」

「えへへ、そっかそっかぁ~」


 満足そうに言うと、葉月は両手で俺の頬を包み込んで自分の顔に引き寄せた。


「ちゅっ……どう? はーちゃん、鴨川さんよりちゅー上手?」

「うん。やっぱり葉月とのキスのほうが気持ちいいよ」

「えへへ、そっかそっかぁ~」


 葉月の小さな舌が、俺のくちびるをぺろぺろと舐めてくる。


「はーちゃん、やっちゃんのこともっと気持ち良くしたいな?」


 まるで「開けて開けて」と懇願するように。


「俺も葉月をもっと気持ち良くしたい」


 その懇願に応えて、俺は葉月の舌を迎え入れる。


 ふふっと葉月がうれしそうに笑った。


「くちゅ、ちゅっ、んむぅ……」


 ぴちゃぴちゃと乾いた水音が部屋に響きはじめる。


 葉月は舌を絡めるキスが好きだ。下から、上から、横から。一辺倒にならないように葉月のざらついた舌を舐め回す。


「んちゅぁ……れろれろ、んじゅるぅ……」


 葉月は、俺の舌裏をくすぐるように撫でてくる。俺が葉月の喜ぶことを知っているように、葉月もまた俺の喜ぶことを知っている。


「ぷぁ……」


 息継ぎのためにくちびるを離す。

 糸を引いた唾液が、俺たちのあいだに滴り落ちる。


「はぁはぁ、やっちゃん……」


 幼さを残した葉月の丸っこい瞳は、既に酩酊状態にあるようにとろけている。


「葉月……」


 鼻先にかかる葉月の熱い吐息が、既に昂っている俺の情欲をさらに滾らせる。心臓が痛いくらいに脈を打ち、下腹部が熱を帯びていく。


「ねぇやっちゃん。はーちゃんとはじめてちゅーした日のこと覚えてる?」


 葉月がキスという単語を口にしたことはない。いつも決まってちゅーという。

 曰く、恥ずかしいのだとか。

 これだけおとなのキスをしておきながらどの口が言うんだと思う。


「GW明けだよね」


 二週間前のことだ。

 その日、俺は四年ぶりに葉月と再会した。偶然の再会だった。


「あの日、はーちゃんがちゅーしたときは、やっちゃんすごく悲しそうな顔してた。当然だよね。鴨川さんと既に付き合ってたんだし」


 あの日、俺は鴨川さんという彼女がいるのに葉月とキスをした。初恋の幼なじみとキスをした。告白を受け入れて、彼氏彼女の関係になった。


「けど、今のやっちゃんは、はーちゃんからのちゅーを平然と受け入れてる。この歪んだ関係を受け入れてる」

「葛藤したって仕方ないからね」


 既に気持ちの整理はついている。


 今だって、感じているのは罪悪感ではなく快楽だ。

 我ながらどうかしてると思う。


「……ねぇやっちゃん。はーちゃんとだけ付き合おうよ」


 すがるような瞳だった。

 俺はかぶりを振る。


「それはできない。鴨川さんを裏切るわけにはいかないから」


 葉月と同様に〝約束〟があるから、別れようとは言えない。


 それに俺は、〝約束〟抜きに鴨川さんが好きになってしまっている。

 あの頃とは違う。もう特別は葉月だけじゃない。


 俺の制服のシャツをきゅっと掴み、葉月はこつんと俺の胸に額を押し当ててくる。


「ほんと、やっちゃんはいつまで経ってもやっちゃんだなぁ……」


 寂しさの滲んだ声だった。


「安心して。はーちゃんは、いつまでもやっちゃんの味方だからね」

「葉月……」

「無理しちゃだめだよ? つらいときはつらいって言っていいし、泣きたくなったら泣いていい。〝約束〟だって、はーちゃんは破られても怒んないからさ」


 俺の心の傷を癒すように、胸を優しく撫でてくる。


「やっちゃんが側にいてくれれば、それだけではーちゃんは満足だからさ」

「……そっか。ありがとう葉月」


 ぽんぽん頭を撫でると、葉月はくすぐったそうに笑った。


「なら早速だけど、キスよりすごいことはまたの機会にお預けでいいかな」


 葉月は常に優位に立とうとする。俺と鴨川さんが手を繋げばキスを求め、俺と鴨川さんがキスすればそれ以上のことを求める。


 だから、葉月のほうがキスがうまいのは当然のことだ。

 葉月のほうが、圧倒的に鴨川さんよりも経験値があるのだから。


「うん、いいよ」


 軽くくちづけしてくる。


「今日はちゅーだけで満足だよ。今度はちゅーよりえっちなことしようねっ」

「……まぁ葉月がそう言うなら」

「えへへ、満更でもない顔しちゃって~。可愛いなぁやっちゃんは」


 ほっぺをつんつんしてくる。


「満更でもない顔?」


 俺、喜んでたのか? 

 葉月にキスよりえっちなことをしたいって言われて。


「うん。そもそもはーちゃん、やっちゃんの嫌がることしないし」


 葉月はいつだって俺の意思を尊重してくれる。


「ちゅーだってね、やっちゃんが喜んでくれるからがんばってしてるんだよ」

「……終わってるな俺」

「そんなへんたいさんなやっちゃんも、はーちゃんは大好きだよ」


 きゅーと葉月が抱きついてくる。


 ……あぁ、落ち着く。


「えへへ~、すりすりすり~」


 抱き締め返すと、葉月は俺の胸に頬を擦りつけてくる。


 ……ほんと、猫みたいだ。

 飼い主なしで生きていけるのか心配で仕方ない。


 鴨川さんと帰ったあとは、必ず葉月の家に寄ること。

 それは俺と葉月のあいだで交わされている〝約束〟のひとつだ。

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