彼女がふたりいる俺は義理の家族に答えを求める。
風戸輝斗
第1話 彼女とはじめてのキス
――柔らかくて拙いキスだった。
「んっ……」
彼女のくちびるは、目を閉じていてもわかるほどに震えていた。
付き合いはじめて一か月近く経つというのに、未だに手を繋ぐことにさえ恥じらいを覚えてしまう彼女のことだ。
キスしよう。そう提案するのに多くの葛藤があったことだろう。
「ぷぁ……」
あたたかく滑らかなくちびるが離れる。
顔を近づけたまま、彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「なんだか恥ずかしいね」
学校からの帰り道でのことだった。
夕陽の遮られたうす暗いトンネルでもわかるほどに、彼女の頬は赤かった。
アーモンドの形をした瞳は緩やかな曲線を描き、トンネルを吹き抜ける穏やかな夕風が、腰あたりまで伸びた濡羽色の綺麗な髪を左右に揺らしている。
「そうだね」
彼女に微笑み返し、俺はトンネルの出口に足を向ける。
「てっきり
すぐに彼女が隣に並ぶ。
「けど、そうでもないみたいだね」
こつこつとトンネルに反響する足音はひとつ。
俺と彼女の足音はぴったりと重なっている。
「うん。わたし、自分からキスしたことって一度もないんだ」
つまり、相手からキスされたことは少なくとも一回以上あるということ。
変に見栄を張ることなく、正直に話してくれるのは鴨川さんのいいところだ。
「はじめて自分からキスしてみてどう? されるのとはなにか違った?」
「……そういう
少し間をおいて、鴨川さんは質問に質問を返してくる。逡巡こそあったものの、俺の問いかけを無視しようとはしない。
鴨川さんはいい子だ。
好きでもないのに付き合っていた彼氏を振ることに罪悪感を覚えてしまうほどに。
「意外かも知れないけど、俺、根暗な性格の割にけっこうモテるみたいでさ」
「身長が高くて顔立ちもそこそこいいし、周囲をよく観察してるし、頭がよくて喧嘩もものすっごく強いから、全然意外じゃないと思うけどなぁ」
そこそことか言っちゃうあたり、如何にも鴨川さんって感じだ。
喧嘩が強い、を高評価するあたりも鴨川さんらしい。
「むしろみんな節穴すぎるんだよ」
鴨川さんは言った。
「
鴨川さんは素直で嘘のつけない子だ。
だからその虚飾ない誉め言葉に、俺はちょっぴりむず痒さを覚える。
「もしかして照れてる?」
「鴨川さんが褒め上手だから」
「ありがと。矢地くんは嘘をつかないから、誉め言葉がよりいっそう染み入るよ」
嘘をつかない、か。
「……まるで俺以外からの誉め言葉はうれしくないみたいな物言いだね」
「だって、みんな嘘ばっかだもん。同調してばっかで心がこもってない言葉ばっか」
鴨川さんの顔に翳が差す。
「だから矢地くんの言葉はうれしいよ」
が、すぐにいつもの可愛らしい笑顔に戻る。
「心がこもってる。わたしとちゃんと向き合ってくれてるって伝わってくる」
「鴨川さんって毒づき出すと容赦ないよね」
クラスでは決して見せることのない一面だ。
俺だけが知っている、彼女のほんとうの姿。
鴨川さんは俺の前でだけ、ありのままの自分を晒す。
「でも、矢地くんはそんなわたしが好きなんでしょ?」
後ろ手を組み、いたずらっぽく微笑みかけてくる。
「うん、好きだよ」
容姿に惹かれたのか。似通った性格に惹かれたのか。
あるいは両方か、どちらでもないなにかに惹かれたのか……。
なんにせよ、俺は
だから告白した。
既にいた彼氏から彼女を奪った。
「……もっかい、しよ」
トンネルを抜ける直前、隣を歩く鴨川さんの足が止まった。
「鴨川さん……」
うつむいてもじもじと膝をすり合わせる姿を見て、やっぱりさっきのキスは相当に背伸びしたものだったのだと確信する。
鴨川さんばかりに負担を強いてはいられない。
踵を返し、俺は鴨川さんの形のいい顎を折り畳んだひと差し指で持ち上げる。
「えっ」
驚いた顔だ。そんな顔も愛しく思える。
腰を少し下ろして視線の高さを合わせ、俺はそっと彼女のくちびるを塞いだ。
「んっ……」
鴨川さんの身長は160センチ近くあり、女の子にしてみればかなりの上背だ。顔立ちがよく、プロポーションがよく、性格もいいという、いいとこばかりの俺の彼女。
「んふぅ……んん……」
くちびるを触れさせ合うだけの初歩的なキス。
けど、これが今の俺たちのキスだ。これ以上のキスを俺たちは知らない。
だから、舌を絡め合う必要なんてない。
「……はは、バカになっちゃいそ」
「満足した?」
「……もっかいだけ」
「わかった」
優しいキスをする。鴨川さんが「もっかい」とおねだりしてくる。同じことを繰り返す。すると鴨川さんは、「もっかい」と消え入りそうな声でいう。堪らず俺は顔を近づける。
淡い夕陽を浴びながら、俺たちは何度も柔らかいキスを交わした。
○○○
駅の改札口でICカードを切り、鴨川さんと手を振って別れる。
プラットホームで待つこと三分ほど。今ではすっかり日常に溶け込んだ緑の電車に乗る。
車窓に広がる茜色の空が次第に藍色に染まっていき、夜の訪れを予感させる。停車するたびに乗車してくる客の割合も増えてきた。
もうすぐ五月も終わりということもあり、夕暮れと雖もそこそこに気温は高い。
手元の自由が利く今の内にブレザーを脱いで腕にかけ、再び窓の外に目をやる。
ぼーっと景色を眺めているのは楽でいい。
なにも考えなくていいから、心が凪いだ海のように落ち着いている。
最寄りのふたつ手前の駅で、俺は電車から降りる。用事があるからだ。
駅前。所狭しと八百屋や小売店が林立する露店めいたアーケード街。
それらを抜けて住宅団地に差し掛かり、足を進めること三分ほど。
周囲に比べて比較的背の低い三階建てマンションの前で足を止める。
目的地到着だ。
塗装の剥げ落ちといった風化具合から察しがつくように、このマンションは相当に年季が入っている。オートロック機能は搭載されておらず、エレベーターで部屋の前まで向かい、インターフォンを鳴らし、「はーい」という家主からの声に応じ、ようやく顔合わせだ。
〝タタタタタタ〟
とはいっても、オートロックに比べて圧倒的にセキュリティが弱い。
訪問販売とか受けたりしないのだろうか。心配だ。
「おっかえり~っ」
乳白色の扉が開くと同時に、部屋からポニーテールを結わえた女の子が飛び出してきた。俺の胸に飛びつくなり、彼女はすりすり頬を擦りつけてくる。
「ここは俺の家じゃないよ」
「もう住んじゃいなよー。はーちゃん、やっちゃんなら大歓迎だよ?」
彼女は自分のことをはーちゃんと呼ぶ。
「葉月と四六時中いっしょか。……想像しただけで疲れてきた」
「またまた~。はーちゃんみたいなかわいこちゃんとの同棲を謙遜したくなる気持ちもわかるにはわかるけどさ~」
「解釈がポジティブすぎるなぁ」
けど、そこが葉月のいいところだ。
いつでも明るくまっすぐに。
そんな葉月に救われたから今の俺がいる。
葉月なくして今の俺は存在し得ない。
「きょうはねきょうはねっ、ビーフシチュー作ったんだ! いっしょにたべよっ! ね、ねっ?」
エプロン姿の葉月がぐいぐい迫ってくる。
「わかったから少し離れて。あと声も少し抑えて」
「どして?」
こてんと首を傾げる。
「周囲にバカップルだと思われる」
「いいじゃ~ん! その通りなんだしっ!」
ニカっと微笑み、葉月はタタタっと軽快な足取りで家に戻っていく。
「……そう、だよな。付き合ってるんだもんな、俺たち」
俺の幼なじみで、親友で、恩人で、初恋の女の子で――
今は彼氏彼女の間柄だ。
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