動き始めた心
その晩、冬夜はまたトモエの髪を乾かしてくれた。
窓の外は満天の星が広がっている。
欠けている月が、トモエを安心させた。
(ずっと欠けていればいいのに)
そんなことを考えていると、あっという間に髪は乾かし終わった。
「外に出たいのか?」
「え?」
「あんた、窓の外をよく見てるだろ?」
なぜか少し不安そうな顔をしている冬夜に、トモエは首を傾げた。
「ここから見る外の景色が好きなんです。それに涼しいから…」
「ああ、そういうことか。外に出てみるか?」
「え?」
「隣の部屋にバルコニーがある」
そう言って、冬夜はトモエの肩にカーディガンをかけた。
それからきょとんとしているトモエの手を取った。
*
夜風が涼しくて、トモエは目を細めた。
冬夜の言った通り、隣の部屋には大きなガラス扉から続くバルコニーがあった。
手すりに手を置いて、遠くにある街の光を眺める。
鈴虫の音が心地よかった。
「……気持ちいいですね」
「夜は冷えるから、あまり薄着では出るなよ」
そう言って、トモエの隣に並んだ冬夜は、トモエの腰を引き寄せた。
思いのほか近くなった距離に、トモエはどきりとする。
冬夜から漂う石鹸の匂いと、自分から香る石鹸の匂いが同じことに、ふと気付いた。
「こんな田舎、あんたは嫌だったか? 車か電車に乗らないと、何もない場所だしな」
冬夜は手すりに腕を置いて、遠くを見た。
「……いいえ、空気が綺麗で、とても過ごしやすいです」
(……どうして、何が嫌とか、そういうことばかりこの人は聞くのだろう)
トモエは少し考えて、ああ、と答えにいきつく。
(私が普通の令嬢だと思っているから……)
花嫁候補は、みんな逃げ出したと言っていた。
普通の令嬢は、もっと賑やかな場所を好むのかもしれない。
冬夜はそういうことを、気にしているのだろうか。
だとすれば、そうじゃないと、トモエは伝えたくなった。
「……冬夜様。私、何も嫌だと思ったことはありません。今のままで、十分満ち足りています」
見上げれば、彼はどこか、少し不安そうな顔をしていた。
冬夜は強い。地位もある。
それなのに、一体何に怯えているのだろう。
「……遠慮しなくていい。なんでも言ってくれ。必要なら、どんなものでも手に入れて見せる」
「今日も、あの、色々買ってくださいました。子犬の柄の布地も……。すごく嬉しかったです。必要なものは、もう手に入っています」
「普通のお嬢様は、そんなんじゃ足りないだろ」
トモエは困ってしまった。
人によるのではないだろうか。
貧乏人でも物を買えるだけ買う人もいれば、金持ちでも何も欲さない人もいるだろう。
「……俺はあんたに、相応の満足な暮らしをして欲しいんだ。ただ、相応というのが、よくわからん。もともとこんな世界にはいなかったしな」
冬夜はそう言って、自嘲気味に笑う。
自分の育ちが悪いと、冬夜は気にしているのだろうか。
この間もそういう話をしていた。
(この人は、もしかしたらずっと、そう言うことをいわれてきたのかな)
だとすればそんなものはトモエにとってどうでもよいことだった。
トモエだって、蔑まれて生きてきたのだから。
差別されるのは、辛いこと。
トモエにはその気持ちが、とてもよくわかった。
本当のことを言えるだけの勇気はまだない。
けれど、どうしても伝えたかった。
「あの……冬夜様が思っているよりも、私は桜狐家では贅沢などしておりませんでした。そんなに裕福というほどでもなかったですし……受け継いだ古いものを使っていました」
ずっと虐げられて生きてきた。
最低限のものだけ与えられて、生かさずも殺さず、と言ったところだろうか。
トモエは無能だから。
だけど。
(無能だったとしても……私に、何かできることはある?)
この人のために、何か尽くせることが。
「私、洋服なんて初めて着ました。こんなにたくさんのものを買ってもらったのは、初めてです」
もじもじしながら、トモエは冬夜をちらりと見上げる。
(私は何もできないけど……もし、言葉で心を癒せることがあるなら……そうしたい)
何もなくても、トモエは言葉を持っている。
「あの、だからその、気になさらないでください、私はすごくこの場所が、」
──この人が、少しでも救われて欲しいと、そう願う。
「好き、ですから……」
心からそう思う。
自然に笑みが溢れた。
冬夜は目は見開く。
月がきれいな夜だった。
淡い光が冬夜の彫りの深い顔だちに、影を落としている。
その瞳にうつる感情はよくわからない。
けれどいつも、冬夜はトモエを真っ直ぐに見つめるのだ。
「それは……」
冬夜が何かを呟いた。
(ああ、また)
冬夜の頬に朱色がさしている。
またそんな顔をして。
(これは契約結婚だと、あなたは言ったのに)
思ってしまうのだ。まるで本当に、恋をしているみたいではないかと。
そんな顔をされたら、トモエの顔もまた、赤くなってしまう。
鏡を見ているようだ。
トモエの胸が苦しいくらいに脈打った。
「トモエ」
気付いたら頬に手を当てられていた。
冬夜の唇が、トモエの唇に重なる。
けれど初めてした時のように、激しいものではなかった。
触れるような、優しくて淡い口付けだ。
「……あの時は悪かった」
「え?」
「あんたが初めてだったなら、綺麗な場所で、優しい言葉をかけて、こうするべきだった。あんたの一番大切な思い出になるように」
トモエは何も気にしていなかったが、冬夜はなぜか激しく後悔にかられているようだった。
その様子を見て、トモエはふと思う。
──この人の、どこが冷酷だというの?
とても優しくて、あたたかい人だ。
トモエにさまざまなものを買い与え、長い髪を乾かし、亀のような歩みに歩調を合わせ。そしてトモエに謝罪した。何も謝ることなどないというのに。
この結婚は契約結婚だと言う。
冬夜はトモエの血筋と力が欲しいのだと。
けれどそれが本当だったとしても、トモエを大切にしていることもまた、真実なのではないか。
(私は、勘違いしていたのかもしれない)
美慧が話した冬夜の噂を、トモエは真実だと疑いもせず信じていた。
桜狐家が、トモエの全てだったから。
だから目の前の事実に気づかなかったのだ。
けれどもう、トモエは桜狐トモエではない。
鬼道トモエだ。
自分の目で見て、自分で感じたことを信じるべきなのではないか。
トモエはようやく、桜狐家ではなく、自分自身の感覚に目を向け始めた。
(この人になら、本当のことを打ち明けても、いいんじゃ……)
でも、そんなことをして失望されてしまったら。
いらないと言われてしまったら、どうしよう?
激怒するかもしれない。それで私を捨てるかも。そんなのは嫌だ。
その可能性を否定できるほど、まだトモエは冬夜のことを知らなくて。
それでも彼を信じたいと、そう思い始めていた。
「謝らないでください。私は何も気にしていませんでした。だってあなたの妻だから」
何かできることがあれば、やってあげたい。
そう思ってまっすぐ冬夜を見返すと、冬夜は少しほっとしたようだった。
今度はそっと、トモエの額に口付けを落とす。
「!」
(そうだ。私にもできること、あるじゃない……)
トモエは迷った末、冬夜の頬にそっと口付けた。
「……! トモエ?」
「あ、の……お腹へってませんか……?」
真っ赤になってそう言えば、冬夜はなぜか硬直してしまった。
トモエも大胆な自分の発言に驚いていた。
(あああ、私、なんてことを……)
こういうのを、淫らな女というのだろうか。
トモエは耳まで赤くなってしまった。
やっぱり今のはなしで、と言おうとしたが、その前に冬夜が食い気味にいった。
「へってる」
また唇が重なる。
今度はもっと深いものだった。
誰かが見ているかも、とトモエは赤くなって、とんとんと冬夜の胸をたたく。
「と、冬夜様……! 外では……」
「関係ない。俺たちは夫婦だから。当たり前のことをしているだけだ」
あんたが悪いんだぞ。
こんなところで、俺を煽るから。
唸るように冬夜はそう言った。
けれどトモエは冬夜のことがもう恐ろしくなかった。
(もっとあなたのことが知りたい)
トモエの静かで冷たかった心臓は、今熱を持って再び動き初めていた。
第三章 終
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