第三章 近づく心
朝の誘い
(あああ、結局昨晩は、何もせず眠ってしまった……)
翌日、いつも通りにトモエは目を覚ました。
昨夜、最後に何か話しかけられた気もするが、思い出せない。
(妻って……なんだかこんなのじゃ、いけない気がする)
トモエは妙な焦りを覚えていた。
体調がよいからだろうか。
自身にばかり向けられていた目が、少しずつ外に向けられていくのを感じる。
美夜子が部屋に来てから、冬夜の居場所を聞いてみた。
「あの、冬夜様は?」
「ご主人様は朝の鍛錬に出ていますよ。裏に鍛錬場があるんです。少し見にいってみますか?」
美夜子にそう言われ、トモエはこくこくと頷いた。
*
服を着替えて、帽子をかぶる。
トモエはすっかり洋装が気に入っていた。軽くて締め付けがないので、和装のときよりも疲れないからだ。
美夜子が以前説明してくれた通り、裏手に回るのにも距離があるようだった。
こっちの部屋通っていくのが早いんですよ! と言って近道を教えてくれたので、ありがく覚えておくことにする。
美夜子の案内でたどり着いたのは、敷地の裏手にある、林に囲まれた小さな道場だった。
中からは何か激しい物音が聞こえてくる。
「?」
素振りでもしているのかと思っていたトモエだったが、窓から中を見て、悲鳴をあげそうになってしまった。
道場の中では、冬夜と暁が打ち合いをしていた。
それも、真剣で。
暁の方は魔性だから、時々消えたり高く跳ね上がったりと信じられない動きをしているが、冬夜は迫り来る剣戟をすべていなしていた。
しかし冬夜は、窓からトモエがのぞいていることに気づき、目を丸くして固まった。
「トモエ?」
暁はその一瞬の隙を逃さない。
気づいたときには、暁は冬夜の首元に刀の先を突き立てようとしていた。
「きゃああっ!?」
トモエは思わず、絶叫していた。
しかし冬夜は、軽く首を傾げるようにして、突きを避けた。
「暁、やめろ。トモエが来てる」
「やーだね!」
それでもやめない暁だったが、腰に思いっきり、誰かの回し蹴りを受けて、吹っ飛んだ。
見れば冷たい顔をした凍蝶が、冬夜と暁の間に入っている。
「いってぇ!?」
「主がやめろと言っている。やめなさい」
「てんめぇ! ぶっ殺すぞ!」
「やってみなさい」
今度は凍蝶と暁の打ち合いがはじまった。
まるで戦場のような光景に、トモエはもう気絶寸前だ。
「トモエ、こんなところで何やってるんだ。危ないぞ。美夜子もなんで連れてきたんだ」
冬夜が汗を拭いながら、道場から出てきた。
「奥様、ご主人様をお探しだったようですので。ちょっと見学するのもいいんじゃないかなって」
「馬鹿、危ないだろうが。トモエも朝は部屋でじっとしてろ。こんなところにわざわざ来なくていい」
トモエを叱ろうとする冬夜に、思わずトモエは本音を言ってしまった。
「じゃ、邪魔をしてしまってごめんなさい。でも、あ、危ないのは冬夜様の方では……? 本物の刀で戦うなんて……!」
冬夜は首を傾げる。
「何言ってるんだ。俺の仕事は魔性を斬ることだぞ? 本番だけ真剣を使うわけにはいかない。最近書類仕事ばかりで刀を振るう機会がなかったから、暁と手合わせしていただけだ」
──当たり前のことだ。冬夜は魔性討伐の最前線で働いているのだから。
(……そっか。冬夜様は本当に、危険な仕事をしているんだ)
冬夜が命の危険にさらされる仕事なのだと、改めて再認識した。
そして感じた。
とても不安だと。
傷ついてほしくない、と思っている自分がいることに、トモエは驚いた。
涙目になってオロオロしているトモエを見て、冬夜は苦笑した。
「あいつらもじゃれあってるだけだ。加減は知っているさ」
「でも……」
不安そうな顔のトモエを見て、なぜか反対に、冬夜は嬉しそうな、愛おしそうな顔をしている。
「おいでトモエ。お嬢様はこんなところに来なくていい。怖かっただろう」
冬夜は強引にトモエの腰を引いた。
「これはいつものことだから気にするな。もし斬られたところで、俺は死にはしないさ」
(そんなわけない。私じゃないんだから)
トモエは人の脆さを知っている。
桜狐は外傷の治癒が得意な一族だ。
たとえ傷は浅かったとしても、菌が入ったり、頭をぶつけたりすれば、時間がたってから命を落とす場合もあるのだ。
「……心配、です」
心から出た言葉だった。
涙目で冬夜を見上げると、彼はトモエの頬を両手で包み込んだ。
「ああ、こんなことで泣くなんて。本当に可愛いな、俺のお嬢様は」
「……」
揶揄われているのかと思って、トモエは唇を尖らせた。
軍人の妻というのは、これくらいでは驚かないのだろうか。
「今日の体調は?」
話を変えるように冬夜はトモエに尋ねた。
「……とてもいいです」
「なら、少し朝の散歩をしよう。美夜子、着替えてくるから、少しトモエを見ていてくれ」
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