初恋のひと
荷物はすぐにまとまった。
トモエが持っていける物など、この家にはほとんどなかったからだ。
小さな部屋で、トモエは深いため息をついた。
嫁入り道具は後日送るため、明日は身ひとつでよいとのことだった。
トモエに与えられたのは、美慧のお下がりの着物一着のみ。
両親の形見や、高価なものは、今はすべて養父母が管理していた。
……いや、管理しているのかも怪しい。
(……この家は、もう裕福な家ではないのだもの。売れるものは、なんだってうるわよね)
トモエの生まれた頃には、もう桜狐家の財政は傾きはじめていたという。
そこにきての火事で、桜狐家は多くの財産を失ってしまったのだ。
おまけに婿入りした養父は、金遣いが荒かった。
まとまった金を手に入れた養父は、今は金に働いてもらう時代だと言って、よく知りもしないのに、多額の投資を始めた。そして数年前に起こった金融恐慌で、信じられないほどの金銭を泡銭にしてしまったのだ。
だからこそ、美慧の力を金に変えているのだし、トモエも今、金に変えられようとしているのだろう。
(鬼道様は、どんな人なのかしら)
顔も知らない結婚相手を、トモエは不憫に思った。
(私は……桜狐家は、詐欺まがいのことをしている)
病弱だと相手には伝えてあると言う。
けれどトモエのそれは、もう病弱という程度のものではなかった。
次の発作が出れば、死ぬかもしれないのだ。
瀕死だと伝える方が、まだ正しいだろう。
多額の金銭を支払って買った花嫁がすぐに死ねば、不良品を買ったも同然なのではないか。
小さな部屋に差し込む月の光をぼんやりと見ていると、きゅんきゅん! と突然部屋の外から鳴き声が聞こえてきた。
「……コムギ?」
トモエははっとして立ち上がった。
(今日は部屋の外に出るなと言われていたけれど……)
しかしトモエは、命令以上に大切なことだと思い立って、慌てて部屋から飛び出した。
*
膝下を、柔らかな毛に擦られるような感覚がした。
「来たらダメと言ったじゃない……!」
「きゅーん!」
甘えるような鳴き声がした方を見れば、コロンとしたふかふかの小さな子犬……のような生き物が、しっぽを振ってトモエの足に絡みついていた。
裏庭に出ていたトモエは、慌てて子犬を抱き上げる。
「コムギ、あのね、最近はどこも
「きゅん?」
コムギは首を傾げた。
「この家に婿に入られる藤宮様は、とっても強い退魔師なのよ。コムギなんか、きっとすぐに祓われてしまうわ」
「きゅん!」
そんなことない! というように、コムギはぽんとした白い眉をを釣り上げた。
この勿怪は、まだ両親が生きていた頃から、トモエのそばにいるか弱い魔性だった。
どこの家にも大抵は魔除けの結界が張られているのだが、そういうものはある程度力のある魔性にしかきかない。こういう小さな勿怪は、結界などを掻い潜って、家に住み着いていることがよくあるのだ。
ほぼ小動物と同じで、力もなければ害もないため、結界に引っかからないのだろう。
コムギは、病弱なトモエの、幼い頃からの唯一の友人だった。
病床にいるトモエのそばにいて、いつもトモエの心を癒してくれた。
お見舞いに来てくれた伊織と一緒に、コムギとボール遊びをしたことをよく覚えている。
火事で家を失ってしばらくしてから戻ってきた時は、涙が出るほど嬉しかった。
けれど養父母はじめ、桜狐家のものは、この勿怪をよく思っていないようだった。
見かけるたびになんとか滅しようと躍起になっているが、この家に魔性を祓えるものはいない。力づくでどうにかしようと、ねずみとりのようなものまで仕掛ける始末だ。
今のところ、コムギは楽々とそれらを避けているようだが、捕まってひどい目にあうところなど、見たくもない。
だからこうして会うたびに説得しているのだが、コムギは言うことを聞かなかった。
「……あのね。私もう、遠くに行くことになっちゃったの。結婚するのよ」
「……きゅん?」
「明日にはここを出るわ。だからね、もうここへ来ないで。会うのもこれで最後。いい?」
「……」
コムギは返事をしなかった。
わかっていないのかもしれない。
(この家にいたら、本当に滅されちゃう……)
今までにも何度も言っているのに、コムギは言うことをきかなかった。
こうなれば最後の手段だと、トモエは覚悟を決めた。
「……どうしてわかってくれないの? コムギって本当にバカで嫌になる!」
声を荒げるトモエに、コムギは驚いた。
「コムギなんて、もうどうでもいいの! わ、私、結婚して、幸せになるから! 目障りなんだから、もうどこかに行って!」
「!」
そう言って、思いっきり踏みつける素振りをする。
さすがのコムギも驚いて、飛びのいた。
トモエは肩で息をしていた。
涙がこぼれそうだった。
「きゅん……?」
「二度と、来ないで」
コムギは目を丸く見開いたあと、ゆっくりと後ずさった。それから何度もトモエの方を振り返りながら、塀に向かって歩いていく。
「きゅーん……」
最後に悲しそうに一声鳴いたあと、塀の向こうへすうっと消えていった。
とうとう我慢できなくなって、トモエの涙から大粒の涙が流れ落ちた。
(私、なんてひどいことを。ずっと友達だったのに……)
とうとう最後の宝物も失った。
トモエの手には、もう何も残っていない。
うずくまって、しゃくりあげて泣いていると、ふと母屋の方からどこか懐かしい声が聞こえてきた。
「……トモエ?」
は、としたときには遅かった。
ふりかえれば、線の細い美しい男性が、こちらを見ていた。
(──伊織さん?)
遠い記憶の中にある、元婚約者の姿と重なった。
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